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【短編小説】雨がもたらすもの

自分の前髪から、水滴が滴っている。
その水滴の落ちる行き先を、目で追ったら、深い青い生地に当たって、同じ色に溶けた。
当たり前かと思って、口元が緩む。今の状況に笑えてしょうがない。

こんなに人を好きになったのは、初めてだった。

だから、別れを告げられた時、頭が真っ白になった。自分がそれに対してどう答えたか、どんな表情で彼女と別れたかも分からない。
少なくとも、彼女の前では、冷静を装えたはず。ちゃんと、彼女に「さよなら」を告げられたはずだ。

それから、彼女とよく過ごした公園に来て、ベンチに座り込んで動けなくなった。その内、辺りは暗くなって、雨も降ってきた。
雨が降るのはちょうどよかった。自分がどんなに泣いても、雨が流してくれるから。

梅雨の時期だから、天気は不安定でも、寒くはない。どれだけ濡れたところで、風邪を引くことはないだろう。一人暮らしだから、びしょ濡れで帰ったところで、心配する人もいない。シャワーの代わりかと思えば、それでいい。

瞳の中にも雨粒が入るから、視界は、公園の野外灯の光で乱反射している。とても綺麗だった。まるで万華鏡を見ているようだ。

明日から、またいつもと変わらない日々が始まるのか。彼女のいない色を失った毎日が。明日から普通に仕事だけど、果たして自分は行けるんだろうか?風邪を引かないまでも、家に帰って寝たら、しばらく動けなくなりそうだ。今、公園で雨に打たれ動けなくなっていることからしても。

そんな自分の前が暗くなり、顔に当たっていた雨が遮られる。

「何をしてるんですか?風邪を引きます。」

傘も差さず雨に濡れている自分に、声をかける物好きがいたか。

雨のせいで姿はよく見えないが、声からして女性だということは分かった。
思わず笑い声が漏れると、相手が少し引いた様子を感じた。そのまま、おかしな奴だと思って、立ち去ってくれればいいのに、傘を差しかけながら、立ち止まっている。

「何してんの?あんた。」

口を開いたら、雨が口の中にまで入ってきた。雨は空気中の塵を含んでいるから綺麗ではないと、どこかで聞いたような気もする。そんな他愛のないことを頭に思い浮かべながら、相手に対して尋ねた。

「それは、私が聞きたいです。」

思っていたより、はっきりとした声が返ってきた。こっちの様子に、声に怯えが含まれるかと思っていたが、しっかりとして、かつ淡々とした物言いだ。

「そんなに濡れたら、体に良くないです。」
「あんたに関係ないだろ?ほっといてくれ。」
「だめです。一度気になったことは、放っておくことができない達なので。」
「・・めんどくさい人だな。」
「自分でもそう思います。」

手で自分の顔をなぞって、視界をクリアにした。傘を差した如何にも仕事帰りといった様子の女性が、固い表情をして立っていた。

「ただ、雨に濡れたかった。それだけ。」
「何か、雨に流したいものがあったのでは?」
「何で、そんなことが分かる?」
「目、赤いですよ。」
「・・これは雨が目に入ったから。」
「本当にそれだけですか?」

相手が軽く首を傾げた。その後、肩にかけていたバッグからタオルを取り出して、自分に向かって差し出してくる。

「どちらにせよ、濡れすぎです。」
「いらない。」
「だめです。使ってください。」
「今、拭ったところで、あんたがいなくなれば、また濡れるし。」
「それもだめです。家に帰ってください。」
「傘もないから、家に帰るまでに濡れる。」

実際自分は手ぶらだった。ポケットに財布と先ほど彼女から渡された指輪が入っているだけだ。相手は、深く息を吐くと、手に持っていた傘もこちらに向かって差し出す。

「これ貸します。私は折り畳みがありますから。」
「いや・・これはちょっと。」

相手が差していた傘は、ビニール傘ではあったが、色とりどりの花弁が舞っているような柄で、男が持っているようなものではない。自宅までは歩きだが、それなりに距離はある。その間、この傘を差して帰る気になれない。

「この傘は、お気に入りなんです。貸すだけですからね。」
「だから、貸してくれなくていいって。」

全く話が噛み合わない。しばらく押し問答を繰り返していたが、その内彼女は、泣きそうな顔で自分に傘とタオルを押し付けると、そのまま背を向けた。立ち去ろうとする彼女の手を咄嗟に掴む。相手は驚いたように振り返ったが、その行為に驚いたのは、自分の方だった。

自分でも、なぜ引き留めたのか、よく分かっていなかった。ただ、その場に立ち上がり、彼女に傘を差し掛けたまま、ポケットを弄り、引き留めた手に指輪を握らせる。

「これは?」
「この傘と引き換えに返して。」
「大切なものではないのですか?なぜ私に?」

改めて問いかけられると答えに詰まる。もう自分には必要ないものだ。ただ、彼女のお気に入りの傘の代わりになりそうなものは、それしかなかった。

「必ず、この傘を返すという証。」
「それは、当たり前です。あくまで、貸しただけですから。」

「早く、帰ってください。」と、彼女は再度念押しすると、傘の下から出て走り出した。走りながら、バッグから折り畳み傘を取り出し、開くという器用な真似をやってのける。

雨に濡れて力も抜けていた俺は、そのまま走り去る彼女の後を追いかけることもできず、ただ見送るだけだった。

「まじか・・。」

そう呟きつつも、俺の中から、それ以上雨に打たれようという気は失せていた。気が削がれたとでも言えばいいか。まぁ、幾ら雨に打たれたところで、自分が彼女と別れたという事実は変わらないし、もう、気が済んだんじゃないか。

渡された傘越しに、公園の灯りの光が透けて、乱反射する。これはこれで綺麗だと思った。さて、どうやって傘を返そう。そう考えながら、俺は公園の出口に向かって、歩き出す。

雨を吸った服は重かったが、この公園に来る前より、俺の足取りは軽かった。

普段とちょっと系統が違う話。雨の中、家に帰っている最中に思い付きました。濡れたら気持ちいいかもなと思ったところから派生したもの。今日、こちらは雨降ってないですけど、投稿します。

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