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【短編小説】『湘南台』行きの電車

俺は、橋の上から、目の前に広がる海を見つめていた。
橋の欄干にもたれて、風に吹かれて、潮の香りを嗅いでいると、今自分が置かれている状況を忘れられる気がした。

朝、自分が乗るはずだった電車が、人身事故で運転見合わせとなった。運転再開の目途はたたず、駅ホームに立ち尽くした俺は、その場で会社に休みの連絡を入れ、逆方面の電車に飛び乗った。

その電車の行き先、『湘南台』という言葉に、海が見たいという気持ちを引き起こされたからだった。

だが、『湘南台』という名前に見合わず、終着駅の近くに海はなかった。更に電車を乗り継ぎ、竜宮城っぽい外見をした駅で降り、何とか海に辿り着いた。見たいと思っていた海だったのに、実際に来てみれば、特に何か特別な感情が湧くわけでもなかった。ここに来たのももう何年かぶりだが、その時、何をしたのかすら、思い出せなかった。

「おじさん。何してるの?」

声の主を見やると、そこに立っていたのは、バックパックを持った、半袖Tシャツにハーフパンツの少年だった。中学生だろうか。
彼は俺と目が合うと、ニヤッと形容したい笑みを浮かべる。

「海を見てる。」
「なら、僕と同じだね。」

制服姿でも、ジャージ姿でもないようだが、平日の今の時間は、学校ではないだろうか?

「君、学校は?」
「今日は、創立記念日とかで休み。おじさんは?仕事中?」

おじさんと呼びかけられるが、俺はまだ30代だ。それでも、中学生の彼から言えば、おじさん、なのだろう。ワイシャツ・スラックス姿の俺は、仕事中に見えたのかもしれない。

「いや、今日は休みだ。」
「じゃあ、何でそんな堅苦しい恰好してんの?」
「他に着る服がなかったから。」
「そうなの?変なの。」

彼は、歩道の奥の方を指差した。

「向こうに行けば、神社とか、売店とか、カフェとかもあるよ。こんなところに立ってなくてもいいんじゃない?」
「・・いいんだ。海が見たかっただけだから。」

俺の答えに、彼は少し首を傾げた。変わった奴だと思っているのかもしれない。ここは観光地で、海を見たいが為に来る人は多分少数。しかも平日の午前中。実際、この歩道を歩いている人はほとんどいない。そして、俺みたいに橋の上で立ち止まって、海を見ている人は他にはいなかった。

「おじさん。時間ある?」

彼はそう尋ねてから、俺に向かって、手を伸ばした。


彼が俺を連れて行ったのは、歩道を奥に進み、かつ階段を登って下った、島の反対側に位置する場所だった。目の前には海しかなく、人も俺達以外にはいなかった。

「ここ、僕のお気に入りの場所なんだ。」
「・・海しか見えないな。」
「さっきの所より、近くで海が見えるよ。ちょっと来るまでが大変だけど。」

確かに、ここに来るまでに、かなりの歩数歩いている。しかも、階段を上がって下っているから、足はだるい。
彼が、斜面のところに、腰を下ろして、足をぶらぶらと揺らし始めた。自分もその隣に座る。足元を覗き込むと、崖部分にぶつかる波しぶきが白く見えた。落ちたら、ひとたまりもないだろう。

俺は、彼に先ほど買った水のペットボトルを手渡した。彼は礼を言って受け取る。

「今日は日差しが強いね。」
「ああ、暑い。」
「本当は、夕日が沈むところの方が綺麗なんだけどね。」
「よく来るのか?」
「大人からは危ないから止められてるけど、何かあると来ちゃうんだ。」

俺は、彼が笑うのを見ながら、持っていたお茶のペットボトルを開け、一口含んだ。

「波が荒かったり、風が強いと、ここから落ちて死んじゃう子が、一年に何人かいるんだよ。」
「・・それは危ないな。」
「人もあまり来ないしね。助けを求めても無駄なんだ。だから。」

彼は、俺の方を向いて、続きの言葉を口にする。

「僕のことをここから突き落としても、たぶん事故で終わるよ。おじさん。」
「・・何を言ってるんだ?」
「おじさんが乗ろうとした電車は、おじさんが待っていたホームで事故に遭ったんだよ?」
「・・・。」

彼にそう言われて、俺は自分がここに来ることになった朝の出来事を思い返す。


風が強かった。
ただ立っているだけで、髪が舞い上がるような、そんな天気だった。だが、強い風が雲を全て吹き飛ばしてくれていて、空は抜けるように青かった。
ホームで、列の一番前に立っていた俺は、風で煽られた長い前髪を払おうと、左手を顔の際で振った。

何にもぶつかりはしなかったはずだ。

だが、その後、俺のすぐ側で女の声がした。
そちらに顔を向けると、高いヒールを履いて、ホームの際を歩いていた女が、バランスを崩して、線路側に体を傾けていた。
手を伸ばして、支えようとしたが遅かった。相手は、そのまま線路に落ちた。ホームドアなんて、設置はされていなかった。

頭を押さえて、女は線路の中に蹲っている。そこに響く周りの人の悲鳴と怒号。電車の急ブレーキの音。
俺はその人を助けようと、線路に降りようとしたが、周りの人に制止された。相手は一番近くにいた俺を見上げて、手を伸ばした。

もちろん、その手は俺には届かなかったし、俺の手も相手には届かなかった。気づいた時には、俺の前には電車が止まっていて、扉は全て開けられ、乗客は皆いなくなっていた。周りを走る人の足音や声はするのに、俺は先ほど相手がいた所を呆けたように見つめていた。俺を制した人も既にいなかった。

事故に遭った女の顔を、俺は毎日朝見ていた。
朝起きるのが遅いのか、いつもホームの際を高いヒールで足早に通り過ぎる彼女のことを、危ないなと思って見ていたからだ。でも、それを制することはしなかった。声をかけることも。

先ほどの彼女は、確かに俺に助けを求めていた。その表情に憤りはなかったから、俺の行動がきっかけで、線路に落ちたのではなかったと思いたかった。結局、彼女がどうなったのかも分からない。電車も動かないし、そのまま仕事に行く気にもなれなかった。

それらを振り払うように、俺は逆方面の電車に乗ったのだ。何とか動いていた『湘南台』行きの電車に。


俺はペットボトルのお茶を全て飲み切った。どのくらいの時間、ここで海を見ていたのだろう。
俺の隣には、ほとんど飲まれていない水のペットボトルがあった。その隣には、萎れてしまっている花束がある。

俺は、ペットボトルの口を開けると、萎れた花束に向かって中身を空けた。全てかけた後、空のペットボトル2本を持って、その場に立ち上がる。遠く望む海はとても美しくて、俺の目には眩しかった。もし、また来ることがあれば、夕日が沈む時に来ようと思う。

帰ったら、事故の件を詳しく調べて、彼女がどうなったかを確認しなくてはならないだろう。もし、無事だったら、一言声をかけたい。できるかどうかは分からないが。

俺はそう考えながら、その場を後にした。

場所はモデルがありますが、フィクションです。
本当は明日投稿予定でしたが、先行して本日投稿します。

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