これから、かなり「物騒な」ことを書きます。

 とにかく、私の仮想敵=「過去の賢人たち」に異議申し立てー別に好き嫌いの話じゃないですーするためにも、その「仮想敵」になってみようと思う。
 どういうことか。以下で説明します。

 私は、大学(7年間)で主に「英文学」について「勉強」しました。簡単にいうと「なす術無く選んだのがたまたま英文学だった」。つまり、
嫌いなわけではないけれども」、半分は強いられる「勉学」だったんですね、僕にとっての「英文学」は、ある意味「敵だった」。
 そもそも、高校時代目指していたのは「仏文学」で、それはまあ、「アウティング」に該当する事柄なので、無闇矢鱈と「テクノ女闘士」の方だったり、「音楽座り込み運動」の方(面識はない)、「ただの自己中ギター馬鹿」「ただの馬鹿」「痴呆」「ハイカラ白痴」「聖・筋肉増強お兄さん」などなど、「純呪詛」的な言葉たちが次々と「無意識」を通過してー「自我ヴェルトフ集団」によってー来るが、「攻撃」(は「洗剤」だけにしとけ)が目的ではない。
私が目指すのは「悪口ではない」。

 そうした、「無意識の村八分によって」「自宅に避難せざるを得なかった」「自主避難民」こと私は、その「おばかさん」たちを糾弾するつもりはない(そろそろ斜め読みやめようね=Xばかり見るのは、アメリカ合衆国の二の舞になるよ)、つまんないじゃん単純に。

 なので、今から私が攻撃する「過去の賢人たち」=「過去の権威」といっていい、は、まず「構造主義」である。ここでのセリー=シリーズは「連続するもの」、「世代を超えて存在しているとされる構造」、を指摘したからといって、それが「個々の文学作品」にとっては、「甚だ迷惑である。」ということだ。それこそ、「作品ひとつひとつ」には「自己同一生」=「特異性」があるので、一概には言えないよ(郷ひろみ)。

 具体例を示そう。
 『ポール・メレ』ー『デイジー・ミラー』ー『魔の山』→仮に「構造1」としよう。
 この「構造1」は、それぞれの作家の出身地と生まれた年が「違う」。

 この「違う」ことが、重要だと考える。なぜなら、「近代以降の人」は「隠された何かを発見すること」に「喜び」=「享楽」を感じ取る生き物だからだ。

 キーワード(仮想敵)としては、「ヴィクトリア文化」「デカダンス」「探偵小説」「ソシュール」「構造主義」「文学の理論化」「ポスト構造主義」「強=脱構築」「陰謀論」「SNS/news」「me too/運動」などなど。

タイトルは『脱=反成長型批評・断筆宣言』。とりあえずね。あーああーー休み休みーーーー(発狂したターザン)


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