真実は勝つ ヤン・フス

「真実は勝つ。」

ヤン・フスの最後の言葉とされています。

ヤン・フスは、1370年、南ボヘミアのフシネッツ村に、貧しい農家の子として生まれました。

名字もない貧農に生まれたのです。

名字に見えるフスは、単にフシツネ村生まれという意味です。

ここでも、偉人たちの数々の例に漏れず、酷苦勉励し、それが司祭の目に止まり、学資の援助を受け、プラハ大学(現カレル大学)の自由学芸部に入学します。

そのプラハ大学においても、努力奮励しました。

当時のプラハ大学は、東欧の唯一の大学で優秀な外国人の学生が集まる中、又、大学は、主にラテン語が使われていたため、ヤン・フスらチェコ語を話す者は、劣等的な立場でした。

その中で、首席で卒業します。

また、学業優秀なため、

1393年には学芸部部長、

1396年には学芸学部(いわゆる哲学部)で修士(Magister)の称号を得、

卒業後も彼の才能と人格を慕う人々が大学へとどまることを勧め、

1398年プラハ大学の教授として留まることとなりました。

1401年には学芸学部の学部長、

1409年には、プラハ大学総長に選任されました。

初のチェコ人のプラハ大学の総長です。

1402年からはプラハ市のベツレヘム礼拝堂の説教師として活動しています。

当時の説教は、ラテン語を用いた難解なものであるのが普通だったそうです。

ヤン・フスは、それをチェコ語を用いた分かり易い説法をしました。

ウイクリフの思想に強く影響されていた彼は、腐敗し堕落したカトリック教会を強く弾劾し、信仰の理想を聖書の中に求めました。

マルティン・ルターの聖書に記されている神のことばに絶対的な権威をおき、救いは人間の行いによってではなく、神の恵みによってのみ得られるとする「信仰義認」に比肩され、難解なラテン語を平易なドイツ語に訳したことも合わせても、ヤン・フスは、時代を先取りしています。

ヤン・フスは庶民にも分かるような易しいチェコ語の説教書を次々に著述し、これがチェコ語の正字法になりました。

フスの口癖は「真実」でした。

人は、それぞれの心の正義を模索し、より神に近い生活を送るべきだと言うのです。

王や教会の言いなりになるのではなく、個人の信念に基づいて生きること。

これが、フスの言う「真実」でした。

彼の思想は、近世の先駆けとなりました。

そして、ヤン・フスの名を不幸にも有名にしたあの忌々しいコンスタンツ公会議が始まります。

ヤン・フス43歳のときです。

彼のいく末は
『囚人よろしく受け取り異端者として焼け。』として、最初から火刑が決まってました。

「真実は勝つ。」

を最後の言葉として残し、業火の炎に消えていくのです。

彼の灰はキリストを裏切った者としてライン川にばらまかれたといいます。

死後の魂の救いまでも否定されるように、また「聖遺物」
として崇拝の対象とならないようにです。


「 真実を求めよ。
真実に聴けよ。
真実を愛せよ。
真実を語れよ。
真実につけよ。
真実を守れよ。
死に至るまで。 」

ヤン・フス

真実の使徒に、人は、こんなひどいことを平気でしたのです。。゚(T^T)゚。

人類は平気で魔女狩りのようなことをいとも簡単にしてしまいます。

今も、言論抹殺してしまっている方たちがおそらくいます。

また、まったく逆の評価でもって、貶められている方もいるでしょう。

それは、私は、トランプとプーチンと見ています。

ヤン・フスの人生を見て、人は、何を学ぶのでしょうか?

何を学んで、今の教訓としているのでしょうか?

これからも、地上の天使を人類は、見殺しにするのでしょうか?

業火に焼かれているとき、ヤンは、マリアの名を呼んだといわれています。

マリアは、手を差し伸べて、
どれだけ、ヤンの火刑を止めたかったでしょうか。

マリアは天上にいて、涙を流し、見守っていたと思います。

それから、人類は、600年のときを経ました。

ヤン・フスの真実の人生を無駄にしないように、
私は、
「真実は、死なない。」
と語り続けたいと思いました。

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