「ふつうの軽音部」28話「仲間と出会う」:「大して強くない適当にやってる部活でも一生懸命やりたい奴はいる問題」と「自分らしさの檻」

6月30日(日)曇り

梅雨時らしい曇りの朝。昨日は晴れている時間が長かったけど、思い出したように雨が降る。梅雨入り前はしばらくちゃんと降ってくれなかったので夏の貯水が心配だなと思っていたけど、それなりに降ってくれれば夏もなんとか持つかもしれないとは思う。雨は降っても降らなくても心配の種になるものではある。

池の鯉が跳ねる音がした。昨日は仕事の後帰ってきてご飯を食べて、録画など見たりしながらうたた寝をしてしまった。12時過ぎに気がついてなんとかパジャマにだけ着替えて布団に潜り込んだが、深夜にもう一度目が覚めると電気がつけっぱなしだった。一階に降りて歯を磨き、布団に戻って電気を消してもう一度寝る。今朝は割と早い時間に出かける予定なので4時前なら起きようと思っていたが、もう一度起きた時に時計を見たら3時45分だったので起きた。9時には沈没していたので断続的ながら7時間は寝たことになる。

流石にまだ暗い中で出かけるまでに何をするか考えながらお茶を飲んで、やることを書き出してとりあえず「ふつうの軽音部」を読み始めた。読み始めると熱中することはわかっているのでどのタイミングで読み始めるかが重要なのだが、まあよかったのかどうか。28話「仲間と出会う」面白かった。

最初はずっと水尾くんのペースでなんだか仕方なく弾き語りを聴かせることになってしまうのだが、「人生初」で「男子と外を二人で歩く」ことになり「水尾くんのファンにバレたらどうしよう」というインキャ思考に陥っているのが可笑しかった。「男子と二人で外を歩く」場面があるなということは前回の後予測していたのだが、そういう取り越し苦労でわざとペースを変えて遅く歩こうとする、というところまでは思わなかった。

以前出てきた同中で生徒会長だったレイハさんがハルくんと呼んでたのは水尾くんのことだと思っていたので、今回レイハさんが出てくるのではと思っていたが、その予測は外れ。完全に予想外のディープな水尾回だった。

適当にやってるバレー部でただひとりちゃんと練習をしている水尾が浮いてしまう、という描写はすごくなるほどと思うというか、リアルだと思った。本当に、「大して強くない適当にやってる部活でも一生懸命やりたい奴はいる問題」というのはそこら中にあるのだろうと思う。水尾は「それ」が何であっても構わないのだけど、「人付き合いが苦手で何か一つのことに打ち込んでいるのが気持ちいからそうしているだけ」というタイプの生徒にとって、居場所はなかなかない、という、こういう自分が教員の頃も感じていたけどなかなか表面化しない問題に切り込んでいるのは面白いなあと思った。

最初はこういうタイプいるよね、と思って読んでいたのだけど、読んでいるうちに待てよ自分もそうだよな、という気がしてきた。「バレーの練習に打ち込む」というのと「読書に耽る」というのとどこが違うのか。読書はもともと一人でやるものだし、他の人がその本に入れ込まなくても関係ない。しかしバレーボールは自分一人ではできないから、一人だけ真面目にやろうとすると適当にやろうとする他のメンバーからは面倒な奴だと思われる。一人で読書に耽っていたら今だと「オタク」とか「ネクラ」とか思われがちだが、まあそういうものとして放っておいてもらえるということはある。自分は中学の頃はそれでいいと思っていたが、高校の頃はそれもつまらないなと思って積極的に人に交流するようになっていったがそれでも自分に似たタイプ、ないしは共通するところがあるタイプと交流するようになって、それはそれで面白いと思えるようにはなった。

鳩野が歌うミスチルの歌に出てくる「自分らしさの檻(おり)」というのは「自分とはこういうもの、こういうタイプ」と自分で決めつけること、だと思うのだけど、自分にはあまりそういうところはないとなんとなく思っていたがそうでもないなとこのマンガを読みながら、またこの文章を書きながら思った。

自分が苦しくなるのは「こうであるべき自分」みたいなものと現状の自分とのギャップにおいてであることが多いなと最近思ったのだけど、「こうであるべき自分」というのもまた「自分らしさの檻」であり、本当の自分というのは本当はそうはなりたくないかもしれない。みんなが適当にやるというなら自分も適当にやるべき、みたいな折り合いの付け方というのはやはりつまらないわけで、そうは言わずにミスチルの歌に代弁させる表現というのは、もちろんそれがこのマンガの常套手段(いい意味で言ってます)な訳だけど、本当に上手いなと毎回思わされる。

私にとってはミスチルでさえ「若者の音楽」なので(つまり自分が共感する同世代の音楽としては聞いてない)音楽の選択に関してはやはりジェネレーションギャップを感じる、というよりandymoriのような全然知らないバンドはまだ未知のものとして聞けるが、ミスチルやスピッツのようなどこかで聞いたことがあるバンドはむしろギャップを感じるなとは思った。ミスチルは自分より8歳くらい、スピッツは5歳くらい若い人たちがやってるバンドだから、聞いているのはひとまわり以上下の人たちという感じである。自分の同世代というとブルーハーツになるし、大学の頃熱中していたのは戸川純、ハルメンズ、特にゲルニカあたりという世代なので。

水尾がバレー部時代に感じていた「見込みもないのにずっと一つのことをやり続けるというのはあまりいことではないんだろう」という判断は、その場ではそんなに間違ってないし周りの雰囲気に流されるとそんなふうに感じてしまうのはわからなくはないのだけど、大人になった身からすれば、そうやって延々と何年も何十年も続けたことが終いにはものすごい力になる、ということがよくわかるわけで、そんなことはないんだよと思うのだが、結局バレー部でトラブルになって退部し、ゆるい軽音部でもガチでやってる鷹見のバンドに誘われるというのはなんというか納得しかない、神の配剤みたいな感じがした。

「仲間と出会う」というのがどういう意味なのかずっと想像していたけれどもわからなかったのだが、まさか水尾がそういう人間で、鳩野の打ち込み方に心を動かされて「仲間と出会った」と感じたということだとは、全く想像していなかった。

鳩野の歌はそういう聞く人の心の中にある何か蟠っているものを思い出させて形として意識させ、聞く人の行動を変えさせてしまうわけだけど、それは言葉だけで言えば鳩野のものではなくて日本のロックの歌詞な訳だから、読めば読むほど日本のロックのリリックの価値がわかっていく、という構造になっているのも面白いなと思った。もちろんそれに魂を入れるのは鳩野の熱さ、つまりは作者さんたちの力量なわけで、毎回脱帽させられる展開だなと改めて思った。

書いているうちにずいぶん時間が経ってしまったが、出かけるまで時間もないのでここまでで。

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