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鬼になれない理想主義者の話

こんにちは、つばめです。

前回の投稿から一か月近く経ち、危うく文字通り三日坊主になるところでしたが、なんとかこう書くことができました。やっぱり継続してなにか書くのは難しい。でもやっぱりnoteを続けていきたいから、何も思いつかないときは好きな歌の歌詞でも打ち込んでやろうかと思っている。botになってやる。

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「鬼になれ。」

こう言われたのは今でもよく覚えている。中学二年生、バスケ部の練習中だった。その時は2対1の速攻の練習中、ふと顧問に呼び止められて、ポンと言われたのだ。

「...お前はこう、優しすぎるんだよ。もっとこう、それがお前の個性ではあると思うんだけど、これは勝負なんだからさ」

練習の流れというか、一緒に練習している彼らになんか嫌に思われたくなくて、カットできたパスをいくつか見逃していた僕は、考えが見透かされたように思った。やはり優しさが常に大切とは限らないよな。

「厳しくあらねば!ボール奪ってやろう!」

そう思って臨んだその日の残りは、見事に空振りした。いや、鬼になるってなんだよ、と中学生ながらに考えながら、日々は過ぎ中学を卒業し、鬼になれないまま今に至る。

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今でもよく思い出す。「優しさ」に疑問を持ったときに。「優しさ」を勘違いしたときに。「優しさ」に絶望したときに。

自分の優しさには歪みがあるように思う。辛さを知ったといい気になって人のことを気遣うのは優しさなのか、本当に相手のためになっているのかいささか不安になる。それはそれはただの哀れみとか同情の類でしかないんじゃないかと。遠藤周作なんかは哀れみを感じることを反射的な行動でしかないとエッセイで書いていた気がする(キリスト教的な考えらしい)。だから僕のやってきた「優しさ」とは自発的に意思をもって行ったものではなく、ただの反射でしかないのではないかと。

あと現実問題、実力のない優しさはただただ舐められる。いや実力があったとしても舐められる。優しさが適切であるためには、優しさを与えられた人間が馬鹿にされていると感じないような関係性が必要なのかなとも思う。自分よりも明らかに身分が上の人に、優しくするという状況にいささかおかしさを覚えるからだ(根拠はなにもない)。

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でもやっぱり僕は優しさを捨てきれない。鬼にはなれない。

それは過去にも、そして現在進行形として僕は周りの優しさに助けられてきたことを思い出すからである。僕は「優しさ」をやたらめったら面倒くさく考えて、それこそその利益なんかを考えたりしてしまう時もあるのだ。しかし、メンタルが糞雑魚な僕が今生きているのは、いつぞやの誰かの目的も知らない優しさがあったのも一つの要因だからだ。不可欠なのは分かるのだ。

優しくもありたい、しかし現実をしっかりと生き抜かないといけない。その境界線を僕はずっと探し続けるのだろう。


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