やさしさってやつ

 先日、仕事の話の中で「やさしさ」が挙がったので、ここいらで書いてみることにした。まあ仕事に限らず日々生活するなかで、たびたび頭の上を輪を描いて浮かんでいるもんですから。個人的なお話も交えながら。

 「やさしさ」とは何なのか・・・と本質を問うようなことをすれば、絶対に終わりが見えなくなってしまう(たいがい僕らが本質論を説く場合は意図的に終わらせている)。因数分解をしてみても、はたまた逆に展開をしてみても答えはでない。実際、書き出してみてすごく困っている。先に結論を書いてしまうと、無責任ながら「分からない」。はっきり言って。

 「やさしさ」と頭のグーグル先生に検索をかけると、どうしても小学生時代が上位にヒットする。うん、あの頃は誰にでもやさしくするのが無批判に当たり前のことだと思っていた。それが「正義」だと頑なに思っていた(今考えると恐ろしいことだけども)。

 男子・女子、顔の良し悪し、人格の良し悪し、健常・障害、その他・・・とほんとに関係なく分け隔てなく接していた。その所以か、高学年にもなるとハンダくんに頼めばなんとかしてくれそう、あの子は「やさしい」から、という希望と期待を受けることが多くなり、班長や委員長に推薦、はたまた障害児の引率みたいなこともやった。なんちゅーか、先生・生徒を含め、周りが面倒臭いと感じていることをしぶしぶながらも引き受けていた・・・やさしいから。

 なにも、そういう面倒なことばかりでなく、女子に告白されることもそれなりにあったし(「やさしいところが好きでした」と言われたこともある)、八方美人な振る舞いをしていたせいか、変な噂を立てられたこともある。スクールカースト的に“弱者”の位置にいる子たちが寄ってくることも多かったし、逆に“強者”から脱落した子が拠り所を求めて、とりあえず寄ってくることもあった。
 
 しかし、皆にいい顔していると、やっぱりそれが気に入らない子も多く「ムカつく」「鼻につく」と何かの拍子に喧嘩になることもあった。そして、いじられたり殴られたりしても何もしないのが基本姿勢だったので、徐々にエスカレートして「いじめ」の手前までいったこともあった。

 とまあ、小学生時代を掘り返してみたけれども、物事はなんであれ両義的で両価値的だから「やさしさ」ひとつで思い返してみても、暖かい思い出や蔵の奥にしまい込みたいことだってある。

 そこでようやく、その頃の自分がどうして人にやさしくしていたかに目を向けてみる。

 たくさん思いつく。やさしくするのが無根拠に当たり前だと思っていたから、そう教えられていたから、親や周りの大人から教わることは絶対だと思っていたから、教わったことをそのまま行うことは善いことだと思っていたから、善いことをすると人に好かれるはずだから、自分は善い人だと思われたいから、などなど。
 今だから思うが、この気持ちの下層には、自分の都合のいいように人を動かしたい、なんでも自分の思い通りにしたい、自分のやり方は絶対に正しいから皆も真似すべき、といった欲望が渦巻いていた。要するに自分中心から発する「やさしさ」だった。別にそれが悪いと言いたい訳ではないし、「真のやさしさ」を説きたいのでもない。上記の自分中心のやさしさだって「やさしさ」の一つの様態に過ぎない。なにか倫理的には足りないものだとしても。

 だったら別の「やさしさ」だってあるでしょうよ、ってんで考えてるわけですが、それがひどく頭を悩ませているのです。だから結論として「分からない」。終わりを知らない試行錯誤の日々。

 今でも自分のやさしさの起点には、人に好かれたい、人に善く思われたい欲望が重い腰を下ろして居座っている。ただ、自分の「やさしさ」の出発点がどこに由来するものなのかを自覚できているかどうかで、やさしさ以前・最中・以後の連続した振る舞いも変わってくる。
 たいがい、やさしくしたいと思っている人は、同時にやさしくされたいとも思っているものだ。というか、「やさしさ」を抜きにしたって、人と人とのあいだに出来上がる物事には、往々にして承認がつきまとう。自分の存在が認められる(と、ある種の誤解をする)と同時に、自分が必要とするモノの存在を認める。そうやって自分をつくりあげるために、自分以外の他者との関係を結んでいく。「やさしさ」はその関係を取り結ぶ一つのきっかけに過ぎないし、「やさしさ」そのものだって振る舞いや想いが一つに還元されないほど複雑雑多なものだ。

 なんだろ、正解は見つからないけれど、自分は「やさしさ」を行うときに昔に比べていい意味で期待をしなくなったと思う。見返りを求めることも少なくなった。むしろ、そういう場面では期待せずにやさしさを“贈る”ことにした。「ほーい、ポンッ!パスッ!」って感じで。

 それから、親しさの度合いで、「やさしさ」の与え方も変えるようになった気がする。

 ええ、まだまだ僕はいい顔しているわけですが。

 ただ、「やさしさ」って言葉がとても大きすぎて、なんでもかんでも包み込んでしまう怖さはある。

 とまあ、とかく差しさわりのないものになってしまった。

 誰か有名な学者さんの理論を使うことだってできるのさ。
 カントは「君の格率が同時に普遍的法則となるように行為せよ」なんて言っていたし、レヴィナスによると常に「他者」は「私」からはみ出していくモノだし、ジンメルは他者との間にはいくつもの「社交」の形式があってそれを「遊戯」として捉えろって言ってる。だけど、彼らの意見を使ってみたところで、自分がほんとに考えている心地はしない。

 最後に一つ。僕が「やさしさ」と連想するときに、必ずBUMP OF CHICKENの「ひとりごと」という曲を頭に浮かべる。それはほとんど聴くことのなくなった今でも変わらない。これまた「やさしさ」について頭を悩ませている歌である。非常に上手いとこをついている(逃げている)。

 まあ、いつもこの曲の

 “ああ、うん
 言われなくたって気づいてる
 僕ちょっと考えすぎ
 ありがとう
 笑ってくれたおかげで僕も笑える”

ていう歌詞に毎回救われてんだけど。

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