見出し画像

「こさえる」美学。目と手で本の顔をつくる|映画『つつんで、ひらいて』

「ものをつくる」ことの原点に立ち返るような映画だった。

子どものころの、盛んに手を動かして夢中になって何かをつくるワクワク。つくるもののゴールが最初から見えているわけではない。けれども手を動かすうちにだんだんとビジョンが見えてくる。そのまだ見ぬ完成形に向かって息を止めるようにまっしぐらに突き進む。

つくっている最中は楽しさなんて感じられない。満足した、手を止めたときに押し寄せてくる達成感。そして、今までやってきたことは楽しかったんだという振り返りと認識。「楽しかった」という記憶が蓄積されていって、自分はこれが好きなんだとますますものをつくりたくなる衝動が起こる。そして、またものをつくる。それの繰り返し。

装幀家 菊地信義さんの仕事ぶりを見ていると、そんな子どものころの自分と重なるものがあった。

数多あるデザインのなかでも、装幀(装丁)には強い興味があった。とくに本を習慣的に読むようになった20歳ごろ、その装幀に惹かれて手に取る本やジャケ買いをする本がたくさんあった。表紙を埋め尽くすような装飾のものもあれば、まっさらな生地の上にポツンと文字が乗っかっているだけのものまで。本の表紙という制限された枠のなかでも無限に見せ方があることを知り、その世界に魅了された。

あるとき好きなデザインに気づいた。自分がついつい手にとってしまう傾向のあるものはだいだい似通っている。とくに人文学系の本のデザインに惹かれていく傾向が強かった。哲学・思想系の本は表紙がかっこいいものが多い。

後年、職業訓練校でデザインの勉強をしていたころ、たまたま学校で見つけた雑誌で自分がよく手に取っていた本のデザイナーを知るところとなる。戸田ツトムさん松田行正さん。その存在を知ってからはますます彼らのデザインや著作を探求していくようになった。

あるときから本屋を巡っていると戸田さんや松田さんと近いテイストを持つ装幀の本が目につくようになった。

どシンプルにタイポグラフィーだけで魅せる本。それらをデザインしているのは水戸部功さんだった。オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界(新訳版)』、テッド・チャン『息吹』やマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』など、シンプルだけど目を惹く独特の美学のある表紙。僕の「好き」を刺激するデザインなこともあり、フィルターがかかってしまい、本屋へ行くと水戸部デザインであろう本ばかり目につくようになってしまった。

映画『つつんで、ひらいて』はその水戸部功さんの師匠にあたる菊地信義さんの仕事に焦点を当てたドキュメンタリーだ。

水戸部さんがiMacを使い、マウスとショートカットキーを駆使してカチカチっとデザインを組んでいくのに対し、目の細かい方眼紙と向き合いひたすら切り貼りを行う菊地さん。同じ装幀の仕事でも、世代や時代、ゴールまでの工程の違いが見て取れて興味深かい。

仕事のやり方は一つではないし、どちらに優劣をつけられるものでもない。

水戸部さんのやり方が現在のデザイン仕事では「当たり前」で「効率が良く」て「速い」のかもしれないが、菊地さんがたどってきた昭和・平成初期のやり方、トレススコープやさまざまなサイズで切り出した文字を切り貼りしたり、直接手で書いたりする「時代遅れ」で「古く」て「効率が悪く」て「遅い」やり方が、出来上がるもの、完成形のクオリティを「下げる」わけでもない。

むしろ、これまで積み上げられてきた経験による誰に取って代わることのできない意匠と美しさがある(さらには、その古いやり方のほうが菊地さんにとって効率的で速いともいえる。それに菊地さんのラフをDTPに精確に落とし込むアシスタントさんもいる)。

二人の仕事のやり方は異なるけれど、二人の考えていること、その思想や仕事への向き合い方、本や装幀という文化に対する態度は共通している部分があるんだろうなと映画を見ていて思った。それぞれがもともと持っていたものなのか、師弟の関係性から生まれてきたものなのか、菊地イズムを水戸部さんが受け継いでいったのか。

水戸部さんが自分の装幀に対して、菊地さんがかつて「死装束だ」と語ったエピソードが印象的だ。菊地さんたちの世代の装幀家が行ってきた仕事に対する死装束という意味だが、決してネガティブな意味ではないらしい。自分(菊地さん)たちの世代の仕事、そこで培われてきた文化、それらにまつわる道具やらなんやらを一旦看取って埋葬して供養する。それを経て次の世代へ受け継がせていく、そんな意味が込められていたと思う。

菊地さんの言葉といえば、本の完成を祝って編集者と蕎麦を食べているときにふっと出た言葉がずっと残っている。

「『こさえる(こしらえる)』って言葉があるでしょう? デザインって『こさえる』ことだと思ってる」

デザインは「設計」ではなく「こしらえる(よりよいように取り繕う、丁寧につくるなど)」こと。他者がいてこそのデザインであり、デザインは誰かのために何かをつくる仕事である。菊地さんの思想の根幹を成すものであり、同時に優しさや力強さを感じさせるものでもあった。

それはまさに本のような「つつんで、ひらいて」あるものと奥底でつながっている。本という物体そのものを表している以上に、本を読む誰かを「つつんで、ひらく」ような、誰かを優しく包摂すると同時に自由へ導いていくような聞こえがある。

そうか、確かに本に助けられたことは幾度としてある。何かから逃避するように、何かを得るように本を開き、閉じるときには目の前の景色が異なって見える。視界が開けて心が前向きになる。そんなことを意図して菊地さんがデザインをしていたかはともかく、菊地さんや本をつくった人たちの「こしらえ」によって僕は救われ、今ここに立っているのかもしれない。

「こさえる」という視点と軸、手を動かし夢中で仕事に取り組む菊地さんの姿。それらは映画を観て以降、まだ1週間と経っていないが、かなり自分の仕事のやり方・あり方に影響を与えてきている。

どこかPCと向き合って仕事をしている気になっていたが、身体に訴えかける、身体とともにあるようにして仕事をしていったほうがいいなという漠然とした思いがある。力の方向を頭から徐々に体のほうに移していくような、頭と体のバランスを維持して身体全体でもの考え、ものつくっていくような。

そちらのほうが、冒頭のように、体を動かして仕事をしたほうが喜びを感じられそうだからだ。かつて夢中になっ図画工作の授業のように。

そして僕がPCのキーを叩くこの先に、このディスプレイの見える先にいる誰かを「こさえる」よう仕事に打ち込むのだ。

キャッチに使ったこの写真。『決壊』は菊地信義さん、『すばらしい新世界』『一九八四年』は水戸部功さんによる装幀

MOVIE FREAK」というYouTubeチャンネルで、映画監督の伊達忍さん、街の視点研究家・アートディレクターの後藤修さんによる紹介・解説がある。本のデザイン仕事も多く手がけてきた後藤さん、映画というコンテンツをつくる伊達さん、世代やそれぞれの視点を反映した話はおもしろく、この映画や菊地さんのことを紐解く鍵にもなる。映画を観る前でも観た後でも、作品をより楽しませてくれる一助となるはず。


・宮崎県では宮崎キネマ館で11月9日まで公開(2023年11月2日現在)。

・菊地信義さんと水戸部功さんのこちらの対談もおもしろいです。


この記事が参加している募集

映画感想文

執筆活動の継続のためサポートのご協力をお願いいたします。いただいたサポートは日々の研究、クオリティの高い記事を執筆するための自己投資や環境づくりに大切に使わせていただきます。