見出し画像

最適化されてはいけない

 「最適化されてはいけない」

 雑誌『WIRED』vol30.はそんな序文ではじまる。
 この序文にすごく心をつかまれた。現代人としての当たり前の思考傾向、テクノロジーの発展とその恩恵を受ける人間や社会との関係性、それらが形づくる未来像。それらに問いを差し向けたこの文章はとても刺激的だった。

 情報技術の発達により、膨大なデータが飛びかい蓄積されていく現代。その蓄積されたデータを統計したり解析することにより、ビジネスや生活に役立てようという動きが活発だ。

 さらに言えば近代以降、教育の普及や産業の発達による経済の成長、国家の成長とともに、合理的な人間であることが理想とされてきた。

 みんな「できる」人間を目指してきたのだ。

 経験というデータを蓄積していき、少し先の出来事が最適なものとなるべく、未来から逆算して考え行動する。未来で利得を味わうためにリスクを回避しながら、効率的に、そして生産的にふるまう。
 そんな思想が当たり前のものとして共有されている時代に、未来予測をより精確に行う技術が発達すれば、未来に向けた選択はより良いものになっていくかもしれない。

 しかし、『WIRED』前編集長の若林恵は言う。それで本当に未来は良くなっているのかと。

 たとえば、子どもたちの身体データを集めて、その子どもたちを各人の身体特性に合わせた競技に振り分け、より優秀な選手を効率的に育てることができたとする。当の子どもだちは自分に合ったスポーツをするため、得意不得意や自己不全感に悩むことはない。自分の特性がデータとして客観的に眺めることができ、そこから自分の未来を知ることができるのなら、人生から無駄な迂回をなくすことができるし後悔することもなくなるかもしれない。人生を最適な方向へ導くことができる。

 ただ、未来を最適化させていくことは幸せになることとイコールで結べるのだろうか。

 サッカーというゲームに、サッカーに最適な子どもたちを集めた結果として、そのゲームはおもしろいものになっているだろうか。勝つことが究極的に目的化され、勝つことに最適化されたゲームには試合結果にかかわらずドラマが存在するのだろうか。サッカーそのものの魅力もそこにはあるのだろうか。そしてサッカーをプレーする選手、それを眺める観客たちは楽しいだろうか、幸せだろうか。

 マラドーナやメッシといった名選手は何か客観的なデータに基づいてサッカーという未来を選んだわけではない。たまたまサッカーが好きで、それを続けていたことが、彼らの潜在的なサッカーの才能を引き出し、その後の未来へと続いただけだ。

 そして、若林の文章に出てきたガリンシャという伝説のブラジル代表選手。彼は知的障害をもち両足がねじ曲がっていた。そんな彼に対して、データはサッカーをすることが最適であるという結果を出せただろうかと若林は疑問を呈す。そして、彼が「最適」を選ばなかったおかげで世界中の「適正ではない」子どもやオトナは夢を抱くことができたとも言う。

 確率論とは言え、未来に向けてどういう選択をすれば最適となるかどうかは、あらゆる選択の自由さから解放されると同時に、選ぶ自由を奪うことにもなる。Amazonのように自分の関心や選択の傾向がデータとして解析され、自分に適した商品が示され「それを選びたかったんだ」という快を感じることもできれば、本人のあらゆる適性を弾き出しだデータがあったとして(職業適性やスポーツ適性のような)、それに基づいて〇〇を選択した方があなたの人生にとっては最適ですと示され、それが本人の意志と相反するものであれば「どうせ〜しても意味がない、芽が出ない」という諦めを生むこともある。

 確率で選択をすることが当たり前となったとき、人々は自由に意志すること、選択することに喜びを感じることができるのだろうか。「どうしても〜したい」という意志や欲求を日々感じることはできるのだろうか。「確率」が「運命」にすり替わってしまわないか。

 最適解を選ぶことが、その本人にとって幸福であるとは限らない。むしろ、「最適」ではなく「最善」を選ぶことで人は幸福を感じるのではないか。最善の選択は、自分のなかに「こうしたい!これがしたい!」という強い欲求がなければ生まれない。

 この話で思い出すのが『ガタカ』という映画。
 人類が遺伝子的に優れた「適正者」と遺伝子的に劣勢の「不適正者」とに分けられた未来。生前の遺伝子検査により生命として虚弱な劣勢遺伝子は排除されていくことがこの世界では当たり前だ。「適正者」の未来は約束されたようなものだが、「不適正者」の未来はその逆で、生き方の選択肢が狭められている。

 「不適正者」の主人公ヴィンセントは子どものころから宇宙飛行士になるのが夢だ。しかし、宇宙飛行士は「適正者」しかなることが許されない。出自的にも体力・能力的にも「適正者」に劣るはずのヴィンセントだが、圧倒的な努力を重ね(そして非合法ルートで「適正者」のIDを入手し)宇宙飛行士の試験を突破、ラストでは宇宙飛行士として宇宙へ旅立っていく。

 夢を諦めずに努力したことを賛美したいところだが、むしろここで重要なのは、確率論で決定された未来に抗い、「宇宙飛行士になる」という選択をし、自分で最善の解を導き出したことではないか。

 何もかもが予測可能な未来、それをもたらすテクノロジーがさまざまな恩恵をもたらすことは間違いないだろう。しかし「最適」と「最善」を取り違えてはならない。最適が必要とされる場面と最善が必要とされる場面を見極めなけらばならない。

 若林は以下のように文章を結ぶ。


「演算された未来」というフィルターバブルのなかには、薄まり先細っていく「現在」しかない。そこでは誰も、何も成長しない。飛躍もない。驚きもない。未来そのものが奪われているのだ。

執筆活動の継続のためサポートのご協力をお願いいたします。いただいたサポートは日々の研究、クオリティの高い記事を執筆するための自己投資や環境づくりに大切に使わせていただきます。