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体は口ほどにものをいう

絶対に見抜かれているな…。
自己弁護はできないし、嘘も通用しないだろうな…と毎回思ってしまう。

整体やリハビリといった体に触れる仕事をする人たちと話すたび、また、自分が施術を受けるたびにそう感じる。

整体師さんたちは心身の不調を訴える人の体に触れることで、その患者が言語化できない不調の原因を推論したり、突き止めたりする。

「日常生活でこんなことはないですか?」「過去に大きな怪我か手術をしましたか?」「こんな癖はないですか?」などなど、過去の出来事や、日常の些細な振る舞いについて患者が語らずとも見抜くことがある。

それはまるで相手の体から発せられる声を手を通じて聴いているかのようだ。
手で質問して体が答える。あるいは、体からの訴えかけ、口から出てこない言葉に手という耳を澄ましているかのようで。

以前、理学療法士さんに話を聞いたところでは、筋肉や骨の一つ一つに触れがなら、体系的な理論を参照し、相手の体の状態と症状の原因を探っていくのだという。

確かに、施術を受けている最中、指先の触れ方に意識を集中していると骨の突き出した部分や連結部、筋肉の付け根だろう部分を慎重に確認しているのがわかってくる。こちらは目を閉じているが、触れながら何かを考えているんだろうなというのが伝わる。

足や腕の稼働の様子、姿勢、重心の位置など、目視と触診から情報を集め推理していく。そこへ患者の証言も加えて、生活の有り様、そこでの体の使い方を立体的に想像する。さまざまな情報の断片をつなぎ合わせて解を導くなんてまるで探偵だ。

「目は口ほどにものをいう」と同じように「体は口ほどにものをいう」。

体の声の聞き方がわかっている人からすれば、相手の発言と実際の体の状態との齟齬にはすぐ気がつくはずだ。それに相手も気づいていないこと、頭で認知していることが実は誤っていたなんてこともあるのではないか。

何度か整体を受けているうちに正直でいようと思うようになった。
とくにそれまで何かごまかしていたわけではないのだが、自分の体にはこれまでの動作・行動の履歴が刻まれている。そのソースコードを読み取れるプログラマーやエンジニアたちの前では自分が何にアクセスしたかなんて一目瞭然だろうと。

それだったら今まで何してました、最近こんな調子です、こんなことに困っているかも、と自分が認知していることを偽りなく話してバグを発見する手掛かりを与えたほうが、お互いにいい関係を築ける気がする。

整体師に身を委ねるというか。心や体を開く、触れられている手に重心を預ける。

それはあなたを信用してますよって自分の体を差し出す行為でもあるし、それによって信頼が築けて、より自分も相手もこの体のことが知れるなら万々歳じゃないか。より施術は精度の高いものになってき、寛解も早くなるのではと。

「探ってやろう」的な、取り調べ的な触れ方だと相手の体も硬直して、上手く声を発することができないのではないか。触れ方が心地いいと体の力も抜けて、場合によっては眠ってしまう。いったん理性をオフにしたほうが体の声は発しやすくなるのはないかという気がする。

これって、実は人と話すときも一緒だなと。

これまでのインタビューやヒアリングの経験上、だいたいこちら側が矢継ぎ早に質問したり、聴きたいことをガンガン投げつけていると、相手も心を開いてくれなかったり、ただただYES-NOな回答で終わってしまう。
話を聞くこちら側が、態度として話をちゃんと聞いていますよという素振りを見せたり、あなたそのものに関心がありますという態度で臨まないと、取り調べや誘導尋問な空気感を抜け出すことができず、その場が相手にとって心地よい雰囲気となることがない。

偽ること、自己演出をすること。もし、相手のそんな「力み」をほぐしたいのなら、まずは自らの力みに気づき、ほぐす作業をしたほうがいい。こちらが自己演出をしようが、そんなものは身の丈に合わないとすぐバレる。

なんだか、体に触れられることからそんな結論に至ったとさ。


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