引き合うときは引き合うものである
意図せず「会いたいな」とか「話したいな」と思っている人とタイミングよく会ってしまうということはよくあることだ。人によってはそれを「引き寄せの法則」だとか表現するのだろうけれど、その表現もなんだかピンとこないところはある。
まあ確信犯的なところはあるにはあるのだ。
そういう人がいそうな場所へあえて行ってみたりして、会えればラッキーという確率論の話。だからまったくの偶然ではない。必然の要素が入り込んでいる。確率低そうだけれど行ってみるかっていうくらいの。
「桃太郎電鉄」をプレイしてゴールまであとスゴロクが何マスってときに祈りをこめてサイコロを回すようなもの。当たれば「よっしゃあああ」、外れれば「まあそうだよね」とどちらの結果が出ようとも納得と妥協がいく。
でも「意図せず」という前置きをしたように、絶対になんとかしてその機会をつくって、というような布石を置いているわけではないし、マスタープランをつくってるわけでもない。
それでも、会いたいなとぼんやり思っていた人と本当にタイミングよく、それも複数人が一同に介すということがたまにある。その不思議。なんの巡り合わせか。
(そしてSNSの発達でリアルタイムでフォロー者の動きがわかってしまい、ほかの会いたかった人が近いけれど別の場所にいることなどが可視化できるようになってしまった)
災害警報や避難指示が出されるほど土砂降りだった今日。家作業に窮屈さを感じ、夕方弱まってきたところでWi-Fiと一服できるところを求めて街へ繰り出す。いつもなら作業に超最適な喫茶店に行くのだけれど、今日は別の場所へ行きたくなった。
家を出る前にぽっと思いついた場所。同い年の青年がオーナーをしているカフェ・バー。知り合ってからずっと通っていて、フリーランスになったときはよくそこで作業していたのに、最近はご無沙汰。たぶん半年くらい通っていなかったんじゃないか。私情もあって夜はなるたけ家にいるようにしていることもあって、だんだん遠ざっていたかもしれない。
そういえば月曜日が休みのこともあったな、今日はやっているだろうか、と期待と不安が入り混じりながらお店を目指す。テナント前の看板に明かりが灯っている。やった、開いている。
久しぶりに開ける扉。薄暗く暖色照明が灯る店内。バーカウンターの向こうに彼がいた。やった、久しぶりだ。
「お兄ちゃん、久しぶり」
お互いにそう挨拶をする(僕らはお互いを「お兄ちゃん」と読んでいるのだ)。大雨ジメジメの気分がどこかへ行く。一瞬で気分が変わる。愛飲していたカフェ・モカを頼む。
オーナーがカウンターのほうを指差している。こっち見ろよと。
その先には“シティボーイ”がいるじゃないか。東京で超有名雑誌やウェブ媒体の編集をしている彼。そうだ、彼は今帰省しているんだった。彼も会えたらいいなと思っている一人だった。相変わらず超多忙そうだけど、生きていそうだし、かなり鍛えられているっぽそうなのが雰囲気で伝わる。
人の変化を見るのは楽しい。彼はいずれ大物になっちまうだろうなと思っている。っていうか期待している。
3人で何年ぶりかの会話をする。それぞれ環境は変わり、みんな個人で仕事をしている。なんだか会話の内容も事業主っぽいことだったり、ああ30代っぽいねということだったりと大人の階段登ってる感がある。それでも3人の関係性というか距離感みたいなもんは変わらないなって思う。
ほかのお客さんもいたりして、少しの時間しか話すことはできなかったけれどそれでも充実した時間だった。そこだけ時間が延びていたような。
オーナーが接客する姿、シティボーイがMacBookのキーを叩く姿。そういう働いている姿の横で僕もPCを叩き、そしてこれを書いている。同じことをしていなくても、同じ空間にて、同じ時間を過ごしているという共同性だけで十分な気がした。
こういう巡り合わせがあるだけでなぜか思考の枠組みは変わるし、モチベーションは上がるものだ。自分が自分と思っている自己同一性なんて怪しいものだ。
引き合うときは引き合うのか。
この記事が参加している募集
執筆活動の継続のためサポートのご協力をお願いいたします。いただいたサポートは日々の研究、クオリティの高い記事を執筆するための自己投資や環境づくりに大切に使わせていただきます。