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戦争がなくならない世界で歴史を学ぶ意味

 学校の歴史の授業において、歴史を学ぶ意義について、こう話す教師がいたのを覚えている。

「先人たちが犯してきた間違いを教訓に、私たちはそれを繰り返さないようにすることが大切だ」

 しかし同時にこういった言葉もある。

「歴史は繰り返す」

 いつからであったかは思い出せないが、その矛盾がいまいち腑に落ちないと、歴史の教科書をめくる度に思うようになった。この教科を学ぶことが、果たして何かの役に立つのかと考え始めた。これは決して、共テで日本史の点が一番低かったことへの腹いせではない。

 それは、例えば古文漢文とか、例えば点Pの動き方とか、例えば熱力学とか、そういうものの必要性に学生が疑問を持つことと等しい。間もなく高校生活を終えようとしているこの時期に、この疑問に正面から組み合ってみたいと思う。

 ここで仮に、人の起こす過ちの一例として、戦争を挙げるとしよう。先述した教師の言い分が有効なものであるとすれば、歴史教育が、ある程度の史実に基づいて行われている、現代の世の中において、戦争は起き得ない。

 しかし、現実はそうではない。日本で道着を着て武士道を学んだはずの男は、遂に戦争を始めてしまった。中東における沈黙は破られ、4度にわたって繰り返された歴史が、また新たな周期に入ってしまった。お隣の国には黒い噂が絶えず、アウシュヴィッツめいた悲劇が繰り返される可能性がある。些細なことでツイ廃が「第三次世界大戦」と騒ぎ出すようになった。結局人間は過ちを繰り返してしまう。

 戦争がなくならない世界で、歴史を学ぶ意味って何だろう。

「それでも諦めず、過ちを減らすために」とかそんなことは言いたくない。歴史教育の意義を、理想論に押しつけたくない。

 そもそも、歴史を学ぶことで、人は過ちを繰り返さなくなるのではない。これは、かの有名な哲学者・ヘーゲルも述べた通りである。彼は、人間が歴史から学ぶことは皮肉にも、「人間は歴史から学ばない」ということだと主張した。そのうえで、僕の考える歴史を学ぶ意味は、視点の獲得だと思う。つまり、過ちを批評する視点だ。

 かつて日本が軍国主義に囚われた時代があり、国民が「戦争もっとやれ」と、声を大にして言っていた時期があった。そういう国民に、所謂自我のようなものを与えるのが、歴史教育だと思う。戦争というものが意味するところを知り、国家ぐるみで身を投げだした先に、何があるのかを知っておくということだ。愛国心は結構なことだが、愛国心ゆえに国を滅ぼせば本末転倒である。

 逆もまた然りだ。すなわち自国を批判することだけでなく、他国のすることを頭ごなしに否定しないことも、その意義に含まれると思う。アメリカがしたことを賞賛し、韓国のしたことを非難する人がいる。他国のしたことが、巡り巡って日本に実害を与えると知ると袋叩きにし、その国が親日国と知ると掌をくるくるさせたりする。だが、他国の行動の背景にある歴史を知っていれば、それに対する評価を、単なる好き嫌いでなくフェアに下せるのではないか。情報がなだれ込む現代の時代に生きるうえで、目先の情報に飛びつくことの抑止力になるのが、歴史を知ることなのかもしれない。物事の本質を見極める鍵となるのが、歴史教育なのかもしれない。

 僕は世界史の授業はとっていなかったけれど、日本史は好きじゃなかった。自信のない教科が共テの一番手に待ち構えていたのは、心をフラットに落ち着かせる意味では幸運だったといえる。でも多分、学校教育を通じて、丸暗記の知識以外に手に入れるべきものを、僕たちは勝手に見つけていかねばならないんだと思う。そういう意味づけがないと、勉強がどんどん嫌いになっていくんだと思うし、僕が勉強を「別に好きじゃなかった」に留めておけたのは、そういうところが大きいと思っている。

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