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201X年3月 鹿ノいヌ街

ぽっかり空いた週末。期限付きの青の十八番と呼ばれる切符が2枚余りそうな事に気付き、ふらっと電車に飛び乗った。誰とも連絡取れなくても充分楽しいのだが、せっかくだからとその地域に移住したKJ氏に連絡を取った。

青の十八番で移動する旅はとても心地が良い。流れる車窓。変わりゆく言語。寝たいだけ寝て、読みたいだけ本を読んで、そして何より大嫌いな渋滞がなく時間通りに着く。

何度か途中下車して探索しつつ、鹿ノ居る街に着いたのは日暮れ近くだった。駅を降りると鐘の音が響き渡り、静寂が訪れる。

この日のホステルは、とても居心地の良い長屋だった。メガネと笑顔の素敵な女将が出迎えてくれ、丁寧に宿の説明と街の話をしてくれた。もう、今日はここから出なくていいなと思ったが、かねてからの友人KJ氏との待ち合わせの時間が来ている。

久々に会ったKJ氏は相変わらずで、地元の人しか行かないであろう居酒屋で乾杯をし、何故か女装するマスターに熱い抱擁を受けた。街の人たちとたわいもない話をして、随分心地よかった。

街はどこかお洒落でアーティスティックで、人々は隠れ家にひっそりと佇んでいる。そして他の観光地と違って押し付けがましくなく、不思議な余裕がある。

なるほど、移住したくなった感覚がわかってきた。

深夜、『灯』と言う名のバーへ。世界一の腕を持つマスターの作るカクテルを飲みながら話をする贅沢。気付いたら最も闇の深い時間になっている。

底冷えする街を歩きながらふと気付いた。

鹿を見てない筈なのに鹿を見た感覚しかない。いや、正確に言うと、鹿に見られた感覚だ。ここに来てずっと見られている。その事をKJに伝えた。

『ずっと鹿に見られてるんだけど、、、』
『カンがいいね。いつから気付いてた?』
『宿に着いたあたりからかな』
『少なくとも鐘の時間からは見られてたみたいよ』

鹿を見る予定がずっと鹿に見られてたなんて。
ホステルに戻ると一気に酔いが回って来た。
もう少しだ。

『鹿ノいヌ街』
ここでは鹿による鹿の時間がゆったりと流れている。

布団に包まると、意識がすうっと飛んだ。

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