『オルダニアの春』13・創作ファンタジー小説(約2500字)
『崖の町』のヒルダは、自分がエルフだと知らず、周りの人と違っているという理由で最下層で暮らしていた。しかし『古代の壁』を修理にきたゴーガ人の青年ウォルターによって、ついに自分自身を取り戻す。エルフの森へ旅に出たいと言うヒルダに、ウォルターは……
第13話 交流する者
「「我々は、オルダール中を巡っている。一年中、ほとんどオルダール人か、アルバ人のいる町で暮らす。昼は壁の修理をし、夜は宿やテントを張って寝泊まりする。旅の間、我々は仲間とだけ過ごす。やり取りはしても、交流はしない。決して交わらない。それが当然の、自然の姿だった。
しかし、どういうわけか、ウォルターのような若者が生まれはじめている。交流する者だ。自らの好奇心に従い、他の種族と自由に話す。どんな暮らしをしているのか、どんなことを話すのか、何を知っているのか、知らないのか。
ウォルターたちは、それに興味があって、進んで知ろうとする。私たちにはない。私たちのような、古いゴーガには。
やわらかく、柔軟で、若く、危うい。だが、それでいい。
きみはエルフだ。我々よりずっと長く生きてきただろう。しかし、エルフの中では若いはずだ。
ウォルターや、きみのような若者が、新しい世界を作る。それが世界を存続させるのか、壊すのか、ゴーガを滅ぼすのか、分からない。
分かっているのは、ここ最近で、これほど大きな使命を得たゴーガ人はいないということだ。彼は、生まれながら我々とは何かが違っていた。
私は彼を育て、ここまで一緒に仕事をしたことを、私は誇りに思う。
オルダニアの歴史は戦争の歴史だ。
巨人、獣王、エルフ、ゴーガ、オルダール、アルバ。それぞれが、己が種族の利益ばかりを考えれば、そこには誤った交流しか生まれない。小さな、間違った、閉じられた考えだ。
正しい交流は、雪解けになる。
ヒルダ。ウォルターのことを、頼む」
真昼に松明を焚き、彼らはできるだけまとまってウォルターを囲んだ。囲みきれない者たちは、少し離れたところで壁のように大きな輪を何重にも作っていた。
波の音に、ギアルヌ語の、低く大地を揺るがすように響く祝詞が混ざる。海鳥が鳴き、魚が跳ねる。
『崖の町』の人々は、突然始まったゴーガ人の儀式を、出立の式典だと思っているのだろうか、遠巻きに、恐る恐る眺めている。今日の漁は、おかげで早仕舞いだろう。
ヘンリーが、跪くウォルターの前に歩み出て、腰にしていた短刀を抜いた。
何が起こるのか、ヒルダが「あっ」と思ったときには、もうウォルターの髪に刃が入れられていた。
結いたところからざっくり切り落とされ、ヘンリーの隣に来ていた男が、紙に受け取ってそれを包んだ。
一生に一度の、人生の使命を得た儀式。
ここにいる仲間みんなで、それを彼らの方法で祝っている。
神聖で、厳かで、猛々しい。
ヒルダはフードをおろした。
一人、また一人と前に出て、ウォルターに言葉をかけながら、握り鋏を回して髪を少しずつ切る。
仕上げは、たぶんその男が一番器用に切るのだろう。仲間の一人が、前後左右のバランスを見ながら、櫛と鋏でどんどん短くしている。
「私の髪も切りたい!」
思わず口に出したヒルダを、彼らは快く中央へ呼んでくれた。ウォルターは、あの微笑みを浮かべている。隣に並んで、跪いた。
「ギアルヌの友人として、ヒルダ、汝の髪も切ろう」
ヘンリーの手つきは、見た目よりもずっと優しかった。絡まるままに放っておいた金色の髪に櫛を入れ、絡まりの酷いところで切り落とす。シャキシャキという小気味よい音が聞こえてくる。
ヒルダは目を閉じた。
父の声、母の声が聞こえる。
「ヒルダは神から授かったのだ。ヒルダは神の子だ」
それを誇らしく思っていたのはいつまでだろうか。自我の芽生えとともに抱く違和感が、いつの間にかヒルダを支配していた。両親が亡くなったとき、ホッとした。
老いない自分に後ろ指をさす周囲。その彼らさえ、老いてこの世から去っていった。貧民窟の隅で膝を抱えていた頃。開き直って占い婆に姿を変えた頃。いつも感じていたのは、罪悪感だった。
自分だけが生き残ること。
みんなを騙していること。
そして、どこかから聞こえてくる、見知らぬ声に応えられないこと。
一房の髪が落ちるたびに、それらの思い出が心の深い所へ落とし込まれていった。
忘れるわけではない。だが、今から進む道には必要ないものだ。
わだかまりは地面に落ちて埃になった。
「ヒルダ」
呼ばれて目を開けると、誰かが気を利かせて、水を張ったたらいを運んできた。
「顔も拭きなよ」
ウォルターが横から、硬く絞った手拭いも差し出してくる。
顔、首、腕。出ているとこはすべて拭いた。秋の麦畑のような黄金の髪、宝石のように赤く輝く瞳、雪のように白い肌、そしてとがった耳。
何年、いや、何十年ぶりになるだろうか。ヒルダは自分自身に戻ったのだ。
ゴーガ人たちの中からは感嘆の声が起こり、表情の変わらない彼らが、同じように目を細めて、彼女のまばゆいばかりの美しさを眺めていた。
「君を必ず、『白鷹の森』へ送り届けるよ」
ウォルターは、力を込めて言った。
「約束する」
ヘンリーがエドマンドと金銭のやり取りを終えると、一行は『崖の町』を発つことになり、町人は四十日前と同様、またぞろぞろと見物に来ていた。
屈強なゴーガ人の中に、ヒルダがいると気づいた者がいただろうか。
彼女はまた、すっぽりとフードを被っていた。
町を出るとは、誰にも言わなかった。テント暮らしの貧民が一人減るだけだ。別れを惜しむ相手もいない。
ゴーガ人は口が堅く、誰もヒルダの素性をしゃべるものはいなかった。
壁が近づいてくる。いよいよ町を出るのだ。扉の下へ、潜り込んでいく。
数メートルの厚みがある壁の内側は、ひんやりとした空気が溜まっていた。
ヒルダはついに、外に出た。
扉の向こうは、きんと空気が冷えていた。
ただ一枚壁を隔てただけなのに、こんなにも違うものなのだろうか。音や匂い、何もかもが、重厚に、輝いてヒルダの内に取り込まれる。
果てなく広がる海と崖の間に、『王の小道』が敷かれている。緩くうねりながら果てしなくのぼり、『無垢なる山』へ繋がっていくのだとは聞いているが、その先は知らない。
今日、ヒルダはそこへ行く。
乱れず進む隊列の途中、ヒルダの足が徐々に歩みを弱め、ついに立ち止まった。
すぐ後ろにいたウォルターだけが足を止めたが、他のギアルヌは次々と無言で脇から追い越して行く。それが彼らの旅の常なのだろう。
ヒルダは振り返って、町を見ていた。
外から見ると、『崖の町』は小さかった。ただの黒い固まりだ。
「さようなら」
と、ヒルダは心の中で町に別れを告げた。
ふいにこみ上げてきた寂寥感に目を伏せて、ヒルダは、もう二度と振り返るまいと前を向いた。
ウォルターが、何も言わずに彼女に続くと、二人は揃ってギアルヌの列の中へ戻っていった。
山頂は、うっすらと雪化粧をまとっていた。
冬は、もうすぐそこまで来ている。
◇第1章 完◇
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