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セクシーフットボールという信念

その衝撃は何の前触れもなく起こった。

第84回・高校サッカー選手権決勝、野洲高校vs鹿児島実業高校。延長にまでもつれ込んだ試合は、すでに両チームとも限界を超えて死力を尽くしていた。

勝負の行方はこのままPKか……?

スタジアム・TVの前の観客たちがそう思い始めた、延長後半7分。ゴール前まで攻められていた野洲高校が、カウンターを仕掛ける。

それは鮮やかすぎるカウンターだった。緩急のついたパス交換、芸術的なヒールパス、小気味よく交わされ敵を置き去りにするダイレクトパス。

サッカーのすべてが、つまったゴールだと思った。でも監督席でガッツポーズをする監督の姿を見て、小学4年生の僕でもそれは思い違いだと思った。サッカーのすべてではない。

野洲高校のメンバーすべての信念が積み重なったゴールなのだ。

網膜に焼き付いたあのプレーは、サッカーから離れたいまでも、見返すことがある。

このゴールはのちにセクシーフットボール象徴するプレーとして一大論争を巻き起こす。メディアはこぞってセクシーフットボールをとりあげ、監督の本も刊行。その結果、現場の指導者は自らのフットボール観と向き合わざる負えなくなったのだ。

とくに高校サッカー界には大きな影響を与えた。高校サッカーは伝統を重んじ、愚直なプレーこそが正義と指導する場合が多い。伝統という重くのしかかる宿命をほとんどの高校が背負い疑問を持つことなく従っているなかで、同じ立場である野洲高校のサッカー部がするりと駆け抜け、日本中で話題となったのだ。その衝撃は計り知れない。

こうしてセクシーフットボールは、日本サッカー界、そして高校サッカー界に大きな楔を打ち込んだ。

しかしローマが1日にしてならないように、野洲高校のセクシーフットボールもまた弛まぬ努力と、他とはちがう孤独の走り続ける信念のもと成り立っていた。

高校を卒業し、サッカーから遠ざかったいまでも、あのゴールを見返す理由はこの点にある。

チャレンジをするとき、人はしばしば孤独になる。あたらしいことをするのだから当然といえば当然だ。当たりまえだからこそ、孤独になる未来に気がつかず、不安を感じ、逆境に追い込まれ、チャレンジ自体をやめてしまったり、病んでしまったりする事態が発生する。

けれどチャレンジの出発点にあるのは、きっと「これはいける!」「成し遂げたい」と思った自信、いわば信念のはず。信念はこれまで生きて、見て、感じてきた経験に由来する。

だからチャレンジの瞬間に孤独であろうと不安に思う必要はないのだ。チャレンジを支えているのは、信念、そしていままでの自分なのだから。迷わず進めばきっとチャレンジは結果を生む。

進むべき道に迷ったとき、僕は14年前のあのゴールを見返す。

そして美しいプレーに感動し、裏にあるストーリーを思い、勝手に勇気をもらうのだ。

「迷う必要はない、まだまだこれからだ」と。




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