読書感想文【歎異抄】唯円著
こんにちはコウカワシンです。
今回は、鎌倉時代の後期に浄土真宗の祖親鸞聖人(しんらんしょうにん)の言葉をお弟子さんの唯円(ゆいえん)が書いたとされる【歎異抄】(たんにしょう)から学ばせていただきました。
【歎異抄】についていろいろな書籍が出版されていますが、入門書とされている次の2冊をまずチョイス。
そして、【歎異抄】を現代語訳して読みやすくしたこの書籍も参考にさせていただきました。
【歎異抄】といえば、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(自分は善人だと思い込んでいる人ですら、往生できるのだから、まして、自分は罪深き悪人だと自覚している人はいうに及ばない)があまりにも有名です。
たぐいまれな文章力と仏教の深い学識を盛り込んでいるため、「理解の浅い人には読ませないように」と室町時代から明治時代まで封印されてきたとされています。
それが解放されるや、近代化に戸惑う青年たちが続々と歎異抄に魅了され一大ブームになり、戦争を経験し「死」を身近に感じた昭和の人たちの心の拠り所になったそうです。
そんな【歎異抄】は世界の著名人も魅了します。
なぜ【歎異抄】は世界からも注目されるのか?
約700年前に書かれた古典である【歎異抄】は、なぜ世界中からも注目されているかというと次の理由があるからです。
世界の平和問題に対する見通しがつくから
人種、性別、年齢、能力、貧富に関係なく誰もが平等に幸せになれるから
親鸞思想が真実のにおいがするから
20世紀最大の哲学者ハイデガーは「この書は世界中の世界の平和問題に対する見通しをつけ、21世紀文明の基礎が置かれる」とまで言いました。
つまりそれは、人種や性別、年齢、能力、貧富に関係なく誰もが平等に幸せになれることであり、未来的な文明の基礎が置かれることですよね。
「本当かなあ?」と疑問に思ってしまいますが、作家の司馬遼太郎(しばりょうたろう)氏をはじめとする愛読者が口々に「真実のにおいがする」「求心的である」「国宝と云っていい」と絶賛しています。
日本を代表する哲学者西田幾多郎(にしだきたろう)氏も「大空襲で一切が焼け失せても歎異抄が残ればよい」と言ったとされています。
文芸や戯曲にも、こぞって歎異抄が取り上げられ、その思想は人文学のみならず、医学や科学の分野にまで波及するほどのベストセラーとなりました。
【歎異抄】を読むことで何が得られるのか?
【歎異抄】をすらーっと読んでみて私なりに理解したことが次のとおりです。
破闇満願(はあんまんがん)
一念往生(いちねんおうじょう)
現当二益(げんとうにえき)
破闇満願(はあんまんがん)とは、「闇が破れ、願いが満たされる」ということです。
たとえば、永い間、闇のように苦しめられていたものが光が差し込んだ瞬間に闇がなくなるような感じです。
この「光」に当たるものが浄土真宗の教えにある「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)という六字の名号であり特効薬なのです。
一念往生(いちねんおうじょう)とは、「死ねばどうなるかわからない」という暗い気持ちも臨終の際に「阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生するという意味です。
「往生一定」(おうじょういちじょう)ともいわれ、死後極楽に往くことがハッキリするとなれば、何かしら勇気が湧いてきますよね。
現当二益(げんとうにえき)とは、生きているときは無上の幸福に救われ、死後は極楽浄土へ往って仏に生まれ変わることができるという意味です。
つまり、阿弥陀様の救いは生きている現在と死後と2回あるということです。
まあ、なんと贅沢なことだろうと思いますよね。
でもそれには私たちがやるべき大切なことがあります。
【歎異抄】から学び、私たちが今後に生かすべき大切なこと
それでは【歎異抄】を現代にどう生かしていくかを取り上げてみます。
それは次のようなことです。
「足るを知る」ことの大切さの確認
「生きる」ことの大切さの確認
「信心」することの大切さの確認
人間には108の煩悩があります。その中でも三毒の煩悩が「欲」「怒り」「愚痴」です。
「欲」という煩悩では主に五欲(食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲)があり、いつの時代にもこの五欲が人間を支配してきました。
しかし、食欲といっても現代では「好きなものを好きなだけ食べたい」という煩悩が大半でしょう。
でも昔をふり返れば、戦争や飢餓で食べること自体がままならなかった時代もあります。
財欲にしても色欲、名誉欲、睡眠欲といったことでさえ、自分の自由にならなかった時代からしてみれば、現代は対処のしようがあるものばかりではないでしょうか。
つまり、「足ることを知る」ことで、少しでも「欲」というものが抑制できるということです。
「怒り」の煩悩も自分が抱える「欲」を満たされなくて起こることが主です。
「怒り」の気持ちが起こるというのは、わからなくはないですが、怒ることで言ってはならないことを言い、傷つけ罪をつくり、悔やみ苦しむ原因にさえなりえます。
それがもとで自暴自棄になってしまっては、せっかくの人生を無駄な時間にしてしまわないでしょうか。
そうならないためには「生きる」ことの意味を自分なりに丁寧に考え、「怒る」ことの無意味さを確認すべきです。
そういった意味でも「信心」し、自分の心を常に平然に保つことが大切です。
「信心」といっても凝り固まった宗教心を持つということではなく、たとえば、浄土真宗の「他力本願」のように自分の至らなさをすべて弥陀の誓願に救ってもらうこともアリだということです。
未来も現在も明るくするには
誰もがまだ見ぬ未来である「死後」について大いなる不安を抱えています。そして「死後」だけではなく、近い未来が暗いと感じることは多々あります。
たとえば、「3日後の受験日に戦々恐々の受験生」や「5日後に大手術をひかえた患者」に「今日だけでも楽しくやろう」と言っても無理な話です。
つまり、未来が暗いと現在も暗くなります。
その「未来が暗い」を取り去るには、自らの煩悩を消すことが一番です。しかし、完全に煩悩を消すことは土台無理でしょう。
でも少しでも煩悩を消す努力をすることで不安を軽くすることはできると思います。
この【歎異抄】は、望みの光を指し与えてくれるというか、気持ちを整えるのに助けになるともいえるでしょう。
そういった意味で、一度は読み、そして繰り返し読むべき一冊であると感じました。
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