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「ようこそ、妖崎あやかし法律事務所へ」第3話

「取り乱してすみませんでした……」

 青年に戻った航は、客間の座布団の上に正座して、シュンと項垂れた。ちなみに新が上座で、客である航が下座に座っている。

「まったくだ」
「大丈夫ですよ!」

 新の呆れた声と優奈の明るい声が同時に発せられて、場が静まりかえる。すみません、すみませんと、航はひたすらに平謝りをする。

「……で、今日はどうしたんだ」

 愛用のコーヒーマグに恐る恐る口を付けながら、新が本題に入る。どうやらまだ熱いらしい。

「それが、実は……昨夜、うちのじいちゃんが交通事故を起こして……」

 その瞬間、再び場が静まりかえった。まだ朝の八時台だというのに、まるで通夜会場のようだった。
 優奈は笑顔が引き攣りそうなのを抑えて尋ねる。

「……綿貫わたぬき工務店の社長さんって、先週、車で向かいの家のガレージに突っ込んでませんでしたっけ」
「突っ込んだなぁ」
「……突っ込みました」

 新は遠い目をしてコーヒーを啜って、航は更に身を縮ませて申し訳なさそうに答える。

 航の生家・綿貫家は、何代も続く古い工務店だ。今でこそ人に交じって生きる妖は少なくないが、綿貫家はその化ける能力を活かし、昔から上手く人に溶け込んで生きてきたという。

 そんな綿貫工務店の社長――航の祖父・綿貫寛達(ひろたつ)が事故を起こしたのは、わずか先週のことだ。仕事中の社用車による事故だったため、顧問弁護士を務める新が諸々の後処理をしたのだ。優奈も法律事務員(パラリーガル)として手伝ったため、よく覚えている。確か、アクセルとブレーキの踏み間違い事故だった。

 おずおずと優奈は挙手する。

「あの、失礼ですが、免許を返納された方がよろしいのでは……? その、人命に関わる前に……」
「……そうできたら、良かったんですが……」

 三度、客間は沈黙に包まれる。最早、通夜会場というより葬式会場だ。
 新が盛大に、深い深い、深海よりも深そうな溜息を吐いた。

「とうとう人をやっちまったか……めんどくせぇ。で、被害者の方はなんて?」
「いえ、その……」

 何故だか航が口籠もる。

「……いないんです」
「いない?」

 首を傾げた優奈に、航が頷く。それから少し迷って、やがて意を決したように口を開く。

「……その、被害者が消えたんです」

 その報告に、優奈と新の怪訝な声が重なる。

「「消えた?」」

 客間の振り子時計が、カチリと、九時ちょうどを指した。

 事故は昨日――六月十五日木曜日の深夜に起こった。

 事故を起こしたのは綿貫寛達。新の事務所と同市内に居を構える工務店の社長だ。その日は取引先の社長の家で夕飯をご相伴に預かっていたらしいが、相手の酒が進み、帰宅が遅くなったらしい。

 時刻は夜の十時頃。幹線道路から一本入り、住宅街が立ち並ぶエリアに近づいた時、突然何かと衝突したという。慌てて外に出てみると車のボンネットは大きく凹み、そこにはいくらかの血が付着していたという。

「でも、慌てて周りを見回しても誰もいなかったんです」
「イノシシとか鹿じゃないのか? 最近は街の方まで出てくるって話多いだろ。イノシシとか鹿とか熊とか」

 コーヒーをずずずと啜りながら、新が尋ねる。もう冷めてますよ、と優奈は内心でツッコむ。

 新の指摘を、航は勢いよく否定する。

「違います! 動物だったら体毛が付着しているはずですが、警察の調べではそういった類いのものは検出されなかったんです。結構な音がしたから近くの家の人も出てきたんですが、やっぱりそれらしき人も動物も見ていないって……」
「それじゃ 例えばえーっと、跳ね飛ばされた相手がそのまま吹っ飛んでたまたま空いてたマンホールに落ちちゃったとか」
「そんなギャグ時空みたいなことあるか」

 関東近郊、それも割と都心に近いところで熊が出る方がギャグですよ。とは言わないでおいた。

 優奈の思いつきにも、航は律儀に答える。

「いいえ、近くに工事現場や、そういった危ない場所はなかったようです」

 うーんと優奈は思わず唸ってしまう。航は意気消沈した様子で項垂れた。

 航は確か、去年高校を卒業したばかりだったか。家の仕事を手伝っているが故に体つきは良いが、人当たりの良さそうな相貌も相まって、シュンとしているとなんだか豆狸の姿を彷彿とさせて、可愛らしく見えてしまう。

 そのまま解決案が出ないまま、数分。

「しゃーねぇなあ……」

 新は残ったマグカップの中身を呷って飲み干すと、空になった器で航を指した。

「車とジジイは今どうしてる?」
「家に戻ってます。昨夜の時点で現場検証は済んでいるので」

 その答えを受けて、新は袖の中からスマホを取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。

 見守る優奈と航の視線の先から、微かなコール音が漏れて――

「よう。昨日お前のとこの所轄で起こった交通事故の資料持ってこい」

 開口一番それだった。
 優奈は頭痛を覚えそうになる。

「……そう。昨日、綿貫の爺さんが事故を起こした件だ。聞いてるだろ。……あぁ? 忙しい? それに担当じゃないだと? 知るか。親父かジジイの名前でも使え、七光り。じゃ、一時間以内に綿貫のとこな」

 言うだけ言って、一方的に通話を切る。

(う、うわー魔王様か何かかな)

 頬を引き攣らせる優奈の向かいで、航は呆気にとられている。

 が、いつまでもそうさせておいてくれないのが、何様、俺様、新様だ。

「んじゃとっとと行くぞ。チビ狸、車頼んだぞ」
「はっ、はい!」

 おもむろに立ち上がって玄関に向かう。その服の裾を、優奈は慌ててハシッと掴んだ。
 畳に座ったまま俯く優奈を、新が目を丸くして上から覗き込む。

「ん? どうした、ユウ。足でも痺れたか。それとも腹でも痛いか?」
「服……」
「服?」

 呻くような優奈の一言に、新は自身の格好を見下ろした。

 寝間着にしている黒の浴衣に、よれた帯。よれよれ、ぼさぼさの寝起き姿は確かに、格好だけ見ればそうだ。

 けれど、大きくはだけた胸元から覗くのは、薄らと凹凸のついた胸板。歩く度に見え隠れする素足。襟足の長い黒髪には寝癖がついて、筋張った首筋のラインを強調している。

 良すぎる素材は、ただの寝起き姿を夜の色香漂う気怠げな化生へと変化させていた。

 だというのに――

「どこかおかしなところあるか?」

 心底不思議そうに新が首を傾げるものだから、優奈は顔を真っ赤にして、思わず全力で叫んだ。

「歩く公然猥褻物になりたくなかったら着替えてくださいっ!」

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