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「ようこそ、妖崎あやかし法律事務所へ」第15話

第三章 吸血鬼の優しさ


『野々宮法律事務所は、四月末日をもって廃業いたしました』

 ゴールデンウィーク明けの、月曜日だった。

 これから七月の海の日までは、祝日のない日々が続く。仕事は嫌いではないし、還暦を迎えてなお現役で働く事務所の主・野々宮秀造はとても良い人で、職場環境にも不満はない。むしろ、保たれたワークライフバランスに生活は充実している。

 それでも約二ヶ月強、祝日なしの事実にはどこか憂鬱な気分を抱かざるを得ない。

 燦々と降り注ぐ日差しの中、そんなことを考えながら出勤した朝だった。

 ローカル鉄道の駅から徒歩五分。少し廃れた田舎町の、駅近住宅街の一角にある、二階建ての古ぼけた小さなコンクリートビル。その二階を間借りしている法律事務所の、玄関扉に貼られた一枚のお知らせを見て――

「はあああああああああああああっ!?」

 閑静な朝の住宅街に、美咲優奈の絶叫が響き渡った。

(ちょちょちょ、嘘でしょ!?)

 ドアノブを回すが、当然鍵がかかっている。慌ててスマホを取り出し事務所の固定電話にかけるが、コール音が返って来るばかりで誰も出ない。続いて、雇い主の野々宮に電話を掛けるが、

『おかけになった電話は、電波が届かないところにあるか――』

 その無機質な音声が聞こえた瞬間、優奈は電話を切った。
 がくりとその場に項垂れる。

(ま、まさか本当に……?)

「どうしたんだい優奈ちゃん? すごい声が聞こえたけど……」

 嫌な汗が頬を伝ったその時、階段下から一人の老女が心配そうに顔を覗かせた。

「あ、大家さん、おはようございます」
「おはよう。もうやぁね、秀造ちゃんみたいに『キミちゃん』って呼んでっていつも言ってるじゃない」

 老女は頬に手を当てて、のんびりと挨拶を返す。

 大家さん――野々宮法律事務所が入っているこのビルのオーナーで、ビルの隣に自宅に住んでいるお婆ちゃんだった。その距離の近さも相まって、時々、事務所に作りすぎたお惣菜を差し入れしに来てくれる。普段はそれ以外で顔を合わすことはないが、どうやら朝の静けさを打ち破る優奈の悲鳴を聞いて様子を見に来たらしかった。

「それで、何かあったのかい?」
「それが……」

 踊り場の端に寄って、大家さんに玄関扉を見せる。件の貼り紙を見て、大家さんは「おやまぁ」と声を零す。驚きつつも、どこかマイペースな様子は健在だった。

 どうしたものかと思案していると、ビルの裏手の駐車場に一台の車が止まり、スーツ姿の一人の男性が降りてくる。

「おはようございます、優奈さん。どうしたんですか?」
「あっ、真垣さん。おはようございます」

 階段を上がってきたのは、生真面目そうな男性――真垣陽一だった。真垣は小さな商社を務めている社長で、以前、私的な問題で依頼を貰ってから、その縁で野々宮は彼の会社の顧問弁護士を請け負っていた。

 真垣は優奈が目で示した先を追い、眉根を寄せる。

「これ……本当ですか?」
「……すみません、私も今日初めて知って……確認したいんですが、電話は繋がらないし、私は鍵も持っていなくて……」
「参ったなぁ。今日は相談事があったのに……」

 困ったように頬を掻く真垣を前に、優奈は消沈することしかできなかった。

 これが本当に倒産――夜逃げなら、弁護士を通じて未払い給料の徴収などを行わなくてはいけない。現在請け負っている依頼への責任もある。

 しかし優奈は、弁護士資格を持っていない。ちょっと法律に詳しいだけの、法律事務員だ。しかも雇用契約上はただのアルバイトでしかない。だからというわけでもないが、自宅から事務所までの距離の近さ、それといつも朝早く出勤し、夜は遅く帰ることから、鍵は野々宮しか所持していなかった。

「すみません。今日のところは一度お引き取り願えますか? なんとか野々宮先生に連絡を取ってみるので……」

 優奈は深々と真垣に頭を下げると、それから大家さんに向き直った。

「大家さん、管理用の鍵ってあります?」
「あるとも。ちょいとお待ちね。家から持ってくるから」

 そう言って大家さんは階段を降りていく。

「優奈さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いみたいですが……何か手伝えることはありますか?」

 青い顔でもしていたのだろうか。真垣が少し覗き気味に尋ねてくる。
 優奈は静かに首を振った。

「いえ、大丈夫です。それに、中は守秘義務に関わるものも多いので……」

 心配はありがたいが、真垣はあくまで依頼人クライアントだ。安易に頼るわけにはいかない。
 毅然と顔を上げる優奈に、少しだけ寂しそうな顔をして真垣が「分かりました」と言う。

「でも、何かあったらすぐに連絡してくれて構わないですからね。日頃お世話になってる分、力にならせてください」

 そんな真垣の気遣いに、ありがとうございますと返して、優奈はもう一度頭を下げた。




「はい、はい……分かりました。ありがとうございます。失礼いたします」

 その日の夕方。電話越しだというのについ頭を下げて、優奈は事務所の電話を置いた。

 午前を過ぎ、昼を食べ、午後が始まり。その間、優奈は野々宮の知り合いの弁護士に連絡を取り、依頼人へ何か連絡がないか調べ続けていた。

 しかし野々宮の現状を知る人はおらず、むしろ事情を説明して驚かれるばかり。

 大家さんにも、緊急連絡先になっていたという野々宮の元奥さんに連絡を取ってもらった。しかし、こちらは長らく連絡すら取っていないとのことだった。

 野々宮は十年ほど前に離婚している。優奈も詳しくは知らないが、原因は野々宮が仕事一筋だったことらしい。娘さんの成人を機に離婚し、以降、約十年。全員が自立している状態であれば、冠婚葬祭などがなければ全く連絡を取らなくても不思議ではなかった。

「ふう……」

 と息を吐いて、優奈は壁の時計を見る。既に窓の外は、夕焼けで真っ赤に染まっていた。

 廃業の貼り紙を見つけてから、早九時間近く。結局、野々宮と連絡を取ることはおろか、現況を知ることすらできていない。

「夜逃げ……なのかねぇ? 秀造ちゃんはそんな人じゃないと思うんだけど。夜逃げにしたって、わざわざ貼り紙を出していくのも変な話だし……もしくは何かの事故か、事件に巻き込まれたり……」

 事故、あるいは事件。誘拐、殺人。そんな嫌な想像が脳裏をよぎり、電灯で照らされた室内に、重苦しい空気が満ちる。

「優奈ちゃん、とりあえず今日はもうお帰り。外も暗くなってきたしね、あまり年ごとの娘さんが遅くまで出歩くもんじゃないからね」

 そう言って大家さんは、開けていた窓を閉め、戸締まりを始める。

 確かに、鍵を持っている大家さんにも都合がある。いつまでも優奈に付き合わせるわけにもいかないし、大家さんの心配も無下にはできない。

「……はい」

 後ろ髪を引かれながらも、優奈は大家さんと共に事務所を閉め、帰路についた。

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