「ようこそ、妖崎あやかし法律事務所へ」第16話
ガタンゴトンと、電車が揺れる。
既に陽は落ちて、外は闇に包まれている。電車の大きな窓ガラスがまるで鏡のようになって、電車の手すりに掴まる優奈の姿を映していた。
幼い顔だった。
司法試験に落ちて、社会人になることを選び早一年と少し。どこまでいってもスーツに着られているようにしか感じない外見は、自分で言うのもあれだが、就職活動中の大学生と遜色ない。今日は特に、まだまだ使えると言って、真っ黒な無地のリクルートスーツを着ているせいもあるだろう。
(勤め先、探さないといけないのかな……)
必至に就職先を探していた頃と、事務所の扉に貼られていた紙を思い出し憂鬱な気分になる。
優奈は弁護士に――なりたかった。理由は単純で、食いっぱぐれる可能性が低いからだ。
美咲優奈は、父の顔を知らない。
経済的DVだったという。金遣いは荒く、母への金の無心は当たり前。時には消費者金融からの借金もあったという。故に母は、優奈を産んで早々に離婚に踏み切った。
だから優奈は父の顔を知らない。それを嘆いたこともない。けれど、女手一つで優奈を育てた母の苦労はきっと想像を絶するものだっただろうとは、ずっと思っている。
だから、お金に困るような暮らしはしたくなった。母を楽にしてあげたいと思って、高校時代はアルバイトにも明け暮れたし、大学からはその貯金と奨学金でなんとか乗り切った。
けれど――優奈は弁護士になれなかった。
――でも、生きていけてしまっている。
思わずこみ上げてきた激情に唇を噛みかけた、その時だった。
鞄の中から突然響いた無料通話の着信音に、優奈は飛び上がりそうになった。
そうだ。今日は急な連絡に備えてマナーモードをオフにしてたんだと思い出す。
慌ててスマホを取り出し、優奈は急いで通話を切った。
一瞬見た画面に書かれていた発信元は、母だった。
帰宅時間帯。車内はそれなりに混雑しているが、周囲を伺うと、どうやら優奈の着信を気にした人はいなさそうだった。
ほっと胸を撫で下ろす。
(いつも急に掛けてくるんだから……)
困ったことに、母の電話はいつも突然だ。さすがに昼間は仕事をしていると察してかけては来ないが、仕事が終わったからといっていつでも出られるわけではない。せめてメッセージで伺いを立てて欲しいなと思いながら、乗換駅に降り立った優奈は、通路の隅で足を止めて、折り返し電話を掛けた。急ぎの用事だったらまずい。
『もしもし?』
数コール後、聞き慣れた声がスピーカーから発せられる。
「あ、もしもし? お母さん? どうしたの? 何かあった?」
『あぁ、もしもし。別に何かあったってわけじゃないけど……もしかして今、外にいるの?』
周囲の喧騒を聞き取ったのだろう。母が尋ねてくる。
「えっと、うん。今、帰ってるとこ」
『話してて大丈夫? 別に特にこれって話もないから、後でもいいけど』
その一言に、優奈の中にめんどくさいという気持ちが湧き上がる。
母としては娘の近況が気がかりで、ちょっと世間話と電話をかけてきているのだろう。優奈としても、別にそれを邪険にするつもりはない。けれどこれが家で改めて、となると、長電話になるのは必至だった。
「大丈夫だよ。今、乗換駅のところだから。電車もまだあるし」
『そう? ならいいけど……ほら、最近そのあたりで変な事件が起きてるじゃない。連続殺人事件』
それは今、巷を騒がせている最も旬な話題だった。
最初に遺体が見つかったのは、今年の二月中旬。それから約半月から一ヶ月おきに、被害者が増えている。連続と称されるのは、その被害者の遺体に特徴があるからだ。
『死体からは血が抜かれてたとか、死体が動いたとか……吸血鬼事件とか、ミイラ事件とか。なんだっけ、変な名前が付いていたじゃない』
「屍鬼事件?」
『そう、それ』
警察の発表では、C県、I県、S県の三県の県境付近で発生していることから『県境連続殺人事件』との名前が付いているが、昼のワイドショーを始め、マスメディアでは誰が名付けたか、もっぱら『屍鬼事件』と呼ばれている。
ちなみに『屍鬼』というのは、日本の古い伝承で『死体に取り憑く悪鬼』を指すらしい。出典によって意味は多少異なるらしいが、いずれも死体に関する意味を持つという。
『みんな人気のない夜道で一人のところを狙われてるみたいだから、優奈も一人暮らしじゃない。心配になって……』
「大丈夫だよ」
と、優奈は努めて明るく返した。
「駅からマンションまではそんなに遠くないし、事務所も駅近だし。帰りが遅くなるっていっても、そんなに深夜になるわけじゃないんだから」
『それは、そうだけど……』
「大丈夫だよ。心配しすぎだって」
それきり互いに言葉を失ってしまい、妙な沈黙が電話越しに行き交ってしまう。
――大丈夫だ。優奈は優奈で、生きているんだから。
母は今も、優奈が育った北関東の賃貸物件で暮らしている。
優奈も独立して独り身になったんだから、もっと安くて手狭なところに引っ越してもいいんじゃないの言ったことはあるが、めんどくさいから、慣れたところがいいからと言って断られてしまった。
きっとあの、自分のものではないアパートの一角が母にとっての家で、優奈にとっての実家なのだろう。
――母は母で、生きている。
高校の学費、アルバイト、生活費、大学受験、大学生活に一人暮らし、それから大学院。
ずっと、目の前の目標を追って生きてきた。
けれど優奈は、司法試験に落ちた――弁護士になれなかった。
それでも働いて、稼いで、食べて、普通に生きている。
優奈は優奈として、母は母として。
きっとこのまま、野々宮の事務所が消えても、優奈はまたどこかで働いて、のらりくらりと生きていくのだろう。たとえ、弁護士になれなくても。
――優奈は独りで、生きていけてしまうのだ。
優奈は一体、何のために弁護士になりたかったんだろう――
無言の電波を破ったのは、母の一言だった。
『……何かあったの?』
たった一言、されど一言。その問いに、優奈は思わず苦笑してしまった。
鋭いな、と思う。きっと声音から違和感を覚えたのだろう。そしてその言葉一つで、心の檻が外れる――話したいと思わせてしまう。
やっぱり、なんだかんだいってもこの人は自分の母親なんだなと思わざるを得なかった。
「あはは……やっぱりバレちゃうか」
誤魔化すように笑って、それから優奈は、行き交う人に聞かれないよう声を顰めて、今日の一連の出来事を説明した。
時折、相槌を交えながら、母は優奈の話に耳を傾ける。そうして、さして長くもない話を語り終えたときだった。
『ねぇ優奈。自宅には行ってみたの?』
「えっ? 自宅?」
唐突な母の質問に、優奈は思わず聞き返してしまう。
『本当に夜逃げなら、貼り紙を出すなんてしないと思うの。家が賃貸でもなく、同居人もいないとなると、借金苦ぐらいしか考えられないけど……でもだったらまず家財を売ったり、家を処分したりするんじゃないかしら』
鋭い推理だった。金銭的に苦しい過去を持つ、母らしい着眼点だった。
『なんて、素人の浅知恵だけど。そうじゃなくても、もしかしたらひょっこり家にいるかもしれないじゃない』
そう言って母はコロコロと笑う。優奈は応えることも忘れ、驚きに目を見開いていた。
なんで気付かなかったんだろう。知り合いや元奥さんに確認を取る前に、やるべきことがあったじゃないか。
まるで、天啓を得たような心地だった。
「お母さん、ありがとう! 先生の家を確かめてみる!」
『えっ、まさか今から行くんじゃないでしょうね? ちょっと、優――』
言うが早いか、母の声を置き去りにして優奈は通話を切る。電話帳から探すのは、今日、登録したばかりの大家さんの名前。
「あっ、夜分すみません。お世話になってます。美咲優奈です。あの、野々宮先生の件でおたずねしたいことがあって――」
聞いたのはもちろん、野々宮秀造の自宅住所。
数分後、通話を切った優奈は、勇んで自宅とは反対方向の電車ホームへと向かった。
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