【短編小説】終の花憑き -永久の春告草-
「私ね、好きな人ができたの」
その日、僕の友人は死んだ。
その胸元には、一輪の黄色い花が咲いていた。
名も知らないその花は、微笑む彼女のように、とても美しかった。
* * *
大学三年の冬だった。
「妖花ですね」
彼女のかかりつけだという病院の診察室で、彼女の担当医だという医者は端的に言った。
三十代前半ぐらいだろうか。眼鏡を掛けた黒髪の真面目そうな男性で、いかにも雇われ勤務医という感じがした。
「ようか……?」
鸚鵡返しに尋ねた僕の言葉に、医者は頷いた。彼女はまだいくつも検査があるらしく、この場にはいなかった。診察室に招かれたのは、病院へ行こうと急かして付き添った、僕だけだった。
「嘘か真かは知りませんが、宿主の命を吸い取る代わりに望みを叶えるとされている花です。あやかしばな、はなあやかし、とも呼ばれています」
「あやかし……妖怪なんですか?」
「いえ、植物です」
きっぱりと医者は否定した。
「ほら、つくも神っているでしょう? 歳月を経た美しい植物が、人を魅入らせ取り憑く。そういう類いのものだと主張する人たちもいるんです。一方で、単なる突然変異だと言う人たちもいます」
分かるような、分からないような話だった。
分かっているのは、謎の花が彼女に根を張っているということだった。
「取り除くことはできないんですか?」
「不可能ですね」
即答した医者の視線は、机の上のモニタに向けられていた。そこには先程撮ったばかりの、彼女の胸のレントゲン写真が映し出されている。
レントゲンには、放射状に広がる太い根がくっきりと写っていた。
「手術で取ることは現実的ではありません」
医者はカルテに何か書き込みながら、続けた。
「引っこ抜いても構いませんが、土が捲られるように、周辺の体組織も一緒に引きちぎられてしまいます。過去には除草剤を蒔いた人もいましたが、薬の毒によって死んでしまいました」
まるで、目の前で見てきたような言い方だった。もしかしたら実際、目の前でそんな風になった患者を見てきたのかもしれない。
僕はパッとしない医者の横顔を見つめながら、口を開いた。
「彼女は……どうなるんでしょうか」
どうしてそんな訪ね方をしたのか、自分でもよく分からなかった。
大丈夫なのか、とか。
害はないのか、とか。
そんな聞き方が、いくらでもあった。
それでもそんな聞き方をしなかったのは、なんとなく、分かっていたからかもしれない。
「どうすることもできません」
医者は、言った。
「少なくとも現代医学ではどうすることもできません」
まるで何度も繰り返してきたかのように、決まり切った言葉だった。
「それが、『花憑き』です」
それは運命を呪うにはあまりにも甘く、美しい響きだった。
「彼女は死にます」
* * *
その帰り道、電車に揺られながら、僕はスマフォを弄っていた。
『植物 寄生』
そう調べると、インターネットで最大手の百科事典の『寄生植物』のページが一番上に出てくる。
――他の植物に寄生し栄養分を吸収して生育する植物。
そこには、有名なラフレシアの名前が載っていた。他にもウツボ科やツル科、いくつもの植物が名を連ねていた。ビャクダンという名称には聞き覚えがあった。香りが良く、線香の材料に使われる植物らしいことを知った。
世界最大の検索エンジンと百科事典は、知らなくても困らないことを沢山教えてくれた。
けれどそれらの植物は、妖花とは違う気がした。
ガタン、と電車が大きく揺れる。
夕時の乗客は多く、座席に空席はない。つり革に捕まった僕の前の席では、色んな検査で疲れたのか、彼女がうつらうつらと船を漕いでいた。長い髪が、まるで貞子のように顔を半分覆っていた。
顔を上げる。差し込んだ夕陽に、目を細める。
――冬虫夏草。
なんて言葉が、どこからか浮かんだ。
確か虫に寄生する菌類で、宿主の養分を糧に体内に菌糸を伸ばし、夏になると地上に草のようなキノコを生やす。当然、宿主は菌に殺される。
『気を付けて下さいね』
僕は、診察室での医者の言葉を思い出していた。
『妖花は時に、宿主を作り替えます』
宿主の養分を糧に美しい花を咲かせ、宿主の死と共に枯れる。それが妖花。
まるでウイルスのようだった。
妖花、と入力して検索ボタンを押す。
――あやしい感じを誘う美しい花。
検索エンジン先生が出してきたのは、そんな無味乾燥な答えだった。
* * *
彼女と出会ったのは大学一年生の時だった。
同じ学部で、よく同じ講義を取っていて、よく見かける顔だなと思った覚えがある。
何がきっかけだったか。それはよく覚えていないけれど、いつの間にかよく話すようになっていた。
学生食堂や大学近くのカフェで、よく講義の復習をした。試験の度に何時間も一緒に対策をして、同じゼミに所属してからは、顔を合わせる頻度も増えた。最近では就職活動も話題に上がることもあった。
いい友人――だった。
パタン、と。手に取っていた分厚い本を閉じる。そのまま、目の前の書架の空白に差し込んで、元に戻す。思わず溜息を吐けば、やけに大きく響いて聞こえる。
大学の図書館は、波紋一つ無い水面のように静まりかえっていた。
日本の妖怪、民俗信仰、日本の神話。そういうのが収められた書架の前。それらしい本をまた手に取って、ぱらりとページを捲る。けれどそこに、妖花の記述はない。この本にも、その本にも、あの本にも。
妖花なんて嘘っぱちじゃないか。
そう思ってしまうほどに、どこにも妖花にまつわる話など載っていない。
――帰ろう。
そう思って踵を返し、通りがかった書架の前で足を止めた。
――どうして。
どうして、その本を手に取ろうと思ったのか分からない。けれど何かに惹かれるように、気付けば僕は、その本を書架から引き抜いていた。
美しい花の写真に彩られた本だった。単行本ほどの大きさで、タイトルは――『美しい花言葉』。
中も、表紙と同じように美しかった。
とっておきの花の写真の傍らに、代表的な花言葉と簡単な説明文が添えられている。
自身の人生とは無縁なガーデニングの棚の前だった。そこで僕は、一枚、また一枚とページを捲った。
桜や桔梗、果ては彼岸花まで。四季で分類された花を追って、どれだけが過ぎた頃か。
「調べてくれてるの?」
突然近くから聞こえた柔らかな声に、僕は驚いて跳ね上がるように振り返った。
彼女が僕を覗き込むように、僕を見上げていた。
そんなにおかしな反応をしただろうか。それとも余程変な顔をしていたのだろうか。
彼女は目を細めて、クスリと笑う。
「私の、花」
そう言って胸元に手を当てる。温かそうなコートの下。そこには今も、黄色い花が瑞々しく咲いている。
「あ、あぁうん。なんとなく、本が目について」
「そっか。――そっか」
しどろもどろになりながら答えれば、彼女はどことなく嬉しげに頷く。
「メッセージ、送ったのに既読も付かないから。次の講義、先生が突然熱出しちゃったから休講だって」
「そ、そうなんだ。ごめん」
「ううん。風邪、流行ってるもんね」
そんなありきたりな事で場を和ませて、彼女は続けた。
「ね、良ければお昼、外まで行かない? 時間も出来たし、学食、最近暖房の利き悪いし」
「あ、うん。そうだね。いいね、そうしよう」
僕が肯定を重ねて返せば、彼女は「やった」とまた笑う。その笑みに、僕はまたどぎまぎしてしまう。
――彼女はこんなに近くで話す人だっただろうか。
本を書棚に戻し、「早く、混んじゃうよ」と急かす彼女を追って、ゆっくりと歩き始める。脳内では、小さな花言葉図鑑で見つけたその名が反芻されていた。
冬の項。黄金色の花に添えられていたのは、幸福と長寿を願う春の名。
――福寿草。
花言葉は、幸せを招く。あるいは、永久の幸福。
* * *
「彼女に伝えていないんですか」
開口一番、僕はそう尋ねた。
「何をですか」
病院の診察室だった。目の前では彼女の担当医が、皓々と光るパソコンのモニタを見ていた。
この時期は風邪にインフルエンザと、医者も暇ではない。大きな病院の勤務医となれば、余計だろう。患者でなければ門前払いをされるかと思っていたが、その予想は外れた。
「死ぬことです」
質問に質問で返した医者に、僕は答えた。想像していたよりも、強い声で、渇いていた。
「伝えていません」
「どうして――」
「分かっているからです」
僕の声を遮って、医者が答えた。僕は思わず、口を噤んだ。
「分かっていて、彼女たちは花に魅入られるのです」
花憑きとはそういうものです、と医者は言った。
――宿主となり花を咲かせる代わりに、宿主の望みを叶える。
なんだかそれは、一種の契約のように思えた。
僕は、何故だか釈然としなかった。
医者はそんな僕に向き直って、例えばですよ、と口を開いた。
「生まれつき病を患っていて、大人になるまで生きられないと言われた子がいたとします。運良く大人になっても、長くは生きられない。そんな人です」
唐突な話だった。
「そんな人が花に魅せられ、花憑きになって己の願いを叶えた――そう例えば病気を治し、少しでも長く生きる。例えそれで遠くない未来に死を迎えるのだとしても、元々長くはない命です。それを不幸と言えますか?」
「……彼女がそうだと言いたいんですか」
「いえ、これはあくまで例え話です」
「…………」
彼女にも――彼女にも、叶えたい願いがあったのだろうか。
たとえ他の何を捨てても、願いを叶えられればよかったのだろうか。
――たった一時、美しく咲いて散る花のように。
黙りこくる僕に、医者はもう一度口を開いた。
「君は、あの子の恋人ですか?」
僕は驚いた。驚いて、一瞬答えを失った。
けれど答えは決まっていた。
「……いえ、違います」
友達です――
そう続けようとして、でもその言葉は喉まで出かかって、出なかった。
そうですかと、医者は頷いた。それ以上は、何も言わなかった。
僕は短いお礼を告げて、診察室を後にした。
* * *
その帰り道、行きつけのコーヒーチェーン店に寄った時のことだった。
「あの」
冷え切った身体を温めようと買ったコーヒーを、受け取る時だった。受け取りカウンターの向こうから、緑色の制服を着た女の子がこちらを見ていた。
それで僕は、声を掛けられたのが自分だと気付いた。
「はい」
と僕は返事をした。女の子はあの、あのと同じ呼びかけを何度も繰り返し、それから意を決したように口を開いた。
「いつも一緒にいる女の人は彼女さんですか?」
僕は目を丸くした。奇跡か偶然か、僕の後ろに客はいなかった。僕はコーヒーを取ろうとした手を、思わず止めた。
「……違う、けど」
けど。
「あ、あの! これ!」
少し声を張り上げて、女の子が手のひら大の紙を両手で差し出した。
そこに綴られていた名前。それから電話番号、メッセージアプリのアカウント名。それらを見て、僕はようやく察した。
あぁそうか。この子は僕に想いを寄せてくれているのか。
顔を上げる。僕を見つめる女の子は、耳まで真っ赤だった。
周囲の客が、僕と女の子をチラチラと窺っている気がした。
――数日前だったら。
僕は、どうしていただろう。
――僕は。
伸ばしたままの自分の手と、カウンターの上のコーヒー、それと女の子の差し出したメモを順番に見て、
「ごめんね」
精一杯の言葉を、小さく告げる。
僕は、コーヒーを手に取った。
* * *
「好きな人とはどうなの?」
それから数日後。コーヒーを啜りながら、僕は彼女に尋ねた。
いつもと変わらないコーヒー店の一角だった。カウンターの向こうでは、今日もあの女の子が忙しそうに働いていた。僕はスマフォで就活情報を集めて、彼女は僕の向かい側の席で、テーブルに肘を突いてそんな僕を眺めている。
「今、猛アタック中」
彼女は嘆息一つ零さず、どころかむしろ笑顔のままだった。
「鈍感な人なんだね」
と相槌を打てば、そうだね、と彼女は口元を緩ませる。
「すごく鈍感。もうすっごく朴念仁。分からず屋。でも、それがいいの」
そっか、と僕は言った。
「変わった好みだね」
「あなたに言われたくないな」
「それは……ごめん」
「謝られると傷つく」
「それは……」
ごめんと言おうとした謝罪を何とか飲み込んで、代わりにコーヒーを啜った。ミルクも砂糖も入れていない黒い液体は少し酸っぱくて、目が覚めるように苦かった。
「なんていうか」
誤魔化すように、僕は言った。
「すごく、残念な人だね」
彼女が笑う。
「でも、そういうところが好きなの」
外は、凍り付きそうなほどに寒かった。
大学に戻る道筋を、僕らは並んで歩く。大して遠い距離ではない慣れた道を、いつも通りに。
その途中で、彼女が足を止めた。
空を見上げる。その視線の先を、僕は追う。
――重たい、灰色の雲だった。
彼女はそこに向かって、息を吐いた。
――白く、柔らかな息だった。
僕と同じ、熱の色だった。
「――わぁ、雪だ」
それをひらりと、氷の欠片が遮った。
どこか間延びした歓声を上げた彼女は、降り始めた事実を確かめるように、手袋もしてない両手の平を上に向ける。その横顔は陽の当たった氷のように、キラキラとしていた。
ひらりと、はらりと空から細雪が降る。
それは春を象徴する花の散り際に、どこか似ていた。
「積もるかな」
次第に勢いを増していく雪の様子を見ながら、彼女が声を弾ませた。
「多分。十年に一度の大寒波が来るらしいし」
「水道管の凍結に注意って、ニュースがうるさいもんね」
ふふ、と彼女が笑う。
「人生で一度ぐらいは、そういうトラブルも経験してみたいけど」
それは、冗談では済まない気がした。
「折角だから、明日は公園の鶴の噴水でも見に行ってみようかなあ」
きっと何年か前と同じように、鶴の翼には見事な氷柱ができていることだろう。
「前にね、隣の家の水道管が破裂して、置いた自転車ごと玄関が凍り付いちゃったって写真を見てね」
すごかったなぁ、と他人事を笑って。
「凍った斜面を滑り降りる軽トラの動画も見たなぁ。車、運転しなくても生きていける場所で良かった」
彼女は胸元に手を当てる。
「もう『春』はやってきてるのにね」
彼女の頭には、いつの間にか白い雪が積もっていた。僕はそれを、そっと払う。それに気付いた彼女が振り向く。
鼻先が触れそうな距離だった。
視線が、交差した。
それから、どちらともなく目を瞑って、唇を重ねた。
――一瞬の。
触れるだけのキスだった。
けれど自分の物ではない熱と、花とは違う甘い香りを感じて、僕は僅かな目眩を感じた。
「……好きな人ができたんだ」
言葉は、滑るように出てきた。
「友達、だったんだ」
「うん」
彼女は静かに、相槌を打った。
「彼女が誰かを特別に思うなんて、思ってなかった」
「……うん」
「でもそれは、僕が彼女のことを何も知らなかっただけかもしれない」
僕の口は、饒舌だった。
「僕は――」
まるで毒に侵されているかのようだった。
「僕の友達を、殺してしまったんだ」
風が吹いて、雪が舞った。
ややあってから、やっぱり彼女は笑った。
「そっか」
――と。
「そっか」
ともう一度言って、破顔する。優しげに細められた目は、真っ直ぐに僕を見ていて。
「あなたは大人になる」
託宣のように、彼女は告げた。
「大学を卒業して、就職して、働いて、いつか素敵な恋人が出来て、結婚して、子供もきっと生まれる」
けれどその時、僕の隣。
『そこ』にいるのは、彼女ではない。
降りしきる雪の中、僕と彼女は歩き出す。変わらず、手も繋がず、肩も触れ合わない距離で。
――桜が咲く頃、陽の色をした花は枯れた。
* * *
それから夏と秋が過ぎた。冷たい冬が去って、暖かな春がやってきた。幾度かの四季が巡って、街にはまた雪が降った。
その雪が溶けた頃、僕は一人、庭に出た。
小さな一軒家にはお似合いの、小さな庭だった。そんな小さな庭の、小さなテラスの端に腰を下ろす。
暦の上ではもう春だというのに、春と呼ぶにはまだ寒くて、僕の吐いた息は真っ白な靄に変わる。
空は、蒼く澄み渡っていた。
「あーっ! パパ、お外に出てる!」
住宅街の静寂を突き破って、溌剌とした声が響く。続いて、ドンッと。昔より少しだけ大きくなった僕の背に、小さくて大きな衝撃がぶつかる。
「パパ、何してるのー?」
「んー? パパはね、お花を見てたんだよ」
そう言ってまた少し重くなった娘を、膝の上に載せてやる。すると娘は僕が見ていた物に気付いて、歓声を上げる。
「わあ! 金ぴか! キラキラ!」
ねぇパパ、と娘が首を真上に向ける。真っ黒な瞳が、冬の陽を浴びて、キラキラと輝いている。
「ねぇねぇ、あれはなんてお花? なんてお名前なの?」
矢継ぎ早な質問に苦笑しながら、僕は口を開く。
「あれはね――」
そうして告げるのは、春一番に咲く花の名。
今日も庭には、美しい花が咲いている。
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