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「ようこそ、妖崎あやかし法律事務所へ」第6話

 結局、酒盛りは陽が落ちるまで続いた。

「あー、ようやくうるさいのが帰った」

 酔っ払いに酔っ払った狸と天狗の祖父を、孫二人が引きずって帰った後。

 少し前の静けさはどこへやら、打って変わって静まりかえった事務所で、新が肩を鳴らしながら、暖簾をくぐって台所に入ってくる。

「天狗の飲酒飛行と事故の件は帆理に投げるとして……あとは示談でなんとかなるだろ。あーめんどくせ」
「とか言って、どうせ書類作りは全部私に丸投げするくせに」

 流し台で洗い物中の優奈は、振り向かずに唇を尖らせた。

 寿司に刺身にオードブルと、天狗と狸のジジイズに押し切られ始まった謎の酒宴は、頼んだ出前でそれなりに豪勢な様子を極めた。

 酒豪の天狗を含む大の男が三人飲んで、数時間。当然、日本酒の一升瓶二本で足りるはずもなく、途中、優奈は孫二人と共に酒屋に買い出しに行く羽目になった。……さすがに飲み過ぎたのが、ジジイズは最後はもう足下もおぼつかないほどに酔っ払っていたが。

「あー疲れた。ジジイならジジイらしくしてろっての」

 新が洗ったばかりのコップを籠から取って、流しっぱなしの水道の蛇口から水を回収していく。新もそれなりに飲んでいたみたいだが、全く酔った様子はない。

(そのジジイをガキンチョ呼ばわりしてたのはどこの誰でしたっけ)

 とは思っても口に出さずにおく。

 優奈は黙々と食器を洗い続けた。いくら出前を取ったといっても、箸にコップに小皿と、六人分の洗い物はそれなりの量になる。食洗機が欲しくなる。

「それにしても、被害者が天狗さんなんてよく分かりましたね。この辺りは天狗さんの活動範囲でもないでしょうに」

「昔あったんだよ。あの馬鹿天狗が酔っ払い飛行して馬車の上に落ちてくるって事件がな。……百年ぐらい前だっけかな? あん時ゃ大変だったんだぞ。今回と違って真っ昼間の公衆の面前で。しかも天狗の羽は普通の人間になんか見えないから、何もない空から突然人が振ってきたようにしか見えないし」
 ぽりぽりと浴衣の隙間から腹を掻く新に、優奈は目を丸くする。

「……そんな昔から弁護士やってたんです?」
「いや、その頃はなんつーか……」

 水の入ったコップを傾ける。その視線が明後日の方向を見ているのは、過去を思い出しているからなのだろう。

「なんか駆け込み寺みたいな感じだったな。厄介事を抱えた奴らが泣きついてきて、それをなんとかしてたら、その話を聞いてまた別の奴がやって来るっつうか……」

 新は何の断りもなく、当然のように洗い物が終わりかけた流し台にコップを置いていく。それから冷蔵庫に手を掛けると、中から『輸血パック』を取り出した。病院などに配られているもので、保管期限が迫った物をとある伝手で買い取っている――らしい。それを新は慣れた様子で封を切り、口に咥えて吸い始める。

 これが彼の『本当の』食事だ。

 蘇った死人とも、あるいは不死なる存在とも言われ、西洋に多く伝説を残す、人間の血を啜り糧とする異妖――吸血鬼。

 齢千年を超えてもなお生き続ける人ならざるモノ――それが彼、妖崎新だった。

 そうこうしているうちに、優奈は洗い物を終える。

 ふぅと一息吐いたところで、ダイニングテーブルの上に置いていたスマホから着信音が流れる。油断しきっていた優奈は、思わずビクッと肩を跳ね上がらせてしまう。

 画面に表示された着信元は、『お母さん』だった。

「出ていいぞ」

 今出ていいのか、と。優奈の一瞬の躊躇を見抜き、新が先手を取る。
 すみませんと一言謝って優奈は応答ボタンを押した。

「もしもし」
『もしもし、今大丈夫?』
「あ、うん。まだ職場だけど」
『あんた、こんな時間まで働いてるの?』

 僅かに怒気を帯びた声、というよりも、驚きと怪訝に満ちた声が電話から聞こえる。

 多分聞こえてしまってるんだろうな、と背後を見ると、耳に電話を当てる優奈を、新はシンクに身体を預けて輸血パックを啜りながら静かに眺めていた。

「こんな時間って言ってもまだ八時だし……それに今日はたまたまお客さんが遅くまでいただけで、いつもは夕方には上がってるよ。先生もあんまり遅くならないように配慮してくれてるし」
『ならいいけど……今月から急に勤め先の事務所を変えるなんて言うから、心配だったのよ、何かあったのかなって』
「え……?」

 嘆息交じりの母の一言に、優奈は思わず声を零した。
 仕事を変えた? 私が?

『何も話してくれないし、でももう優奈もいい大人だから、自分のことは自分でしっかり考えてるだろうから、あまりあれこれ聞いても良くないと思って』
「う、うん……大丈夫だよ。ありがとう。その……前の仕事は、色々あって……」

 そう――色々あった。

『セクハラパワハラとかじゃないわよね?』
「ち、違うよ! あの先生はえっと……前の先生はいい人だったよ。その……理由はそのうち話すよ。お盆とか、帰った時にでも」
『そう? ならいいけど』

 そう答えながら、優奈は心臓がどくどくと脈打つのを感じていた。

 前の事務所、先生。名前が出て来ない。名前は、誰だっけ?

 遠い昔のことではないはずなのに、まるで記憶に靄がかかっているように思い出せない。

 母はそんな優奈の様子に気付いているのかいないのか、それともあえて詮索しないでいてくれるのか、深くは尋ねてこない。

 着かず離れず居てくれるような。その距離感が、なんだか今は無性に、ありがたい気がした。

『難しい仕事なんだから、無理だけはしないようにね。それじゃ、まだ職場なのにありがとね。またね』

 そう言って、電話が切れる。優奈は通話終了を示すスマホの画面を、しばらくぼーっと見つめていた。
 ――そんな優奈を、新もまたじっと見つめていた。

「電車、いいのか?」
「あっ!!」

 新の唐突な一言に、優奈は弾かれたように時計を見た。慌てて帰り支度を始める。

 まだまだ帰宅時間とはいえ、この時間は電車の本数が減ってくる。一本逃せば帰る時間が大幅に遅れ、遅れればご飯もお風呂も後ろ倒しになる。今日はもう色々食べたからご飯は要らないが――ともあれ、遅くなった分、自由に使える時間や睡眠時間が減るのは間違いない。動画サブスクのお気に入りリストは、まだまだ未視聴の映画とドラマでいっぱいなのだ。

「相変わらず慌ただしいなぁ。いっそここに住めばいいのに」
「またその話ですかぁ?」

 急いでジャケットに袖を通し、鞄に荷物を詰め込む優奈を見て、新が呆れたように声を掛ける。優奈は忘れ物がないか確認しながら、空になった輸血パックをゴミ箱に捨てに行く新を見た。

「やですよ、住み込みなんて」
「俺は歓迎だぞ? 炊事・洗濯・掃除やらなくて済むからな」
「だからやなんですよ!」

 まったく、と憤慨しつつ、優奈は急ぎ足で玄関に向かい、パンプスを履く。

「じゃ新さん、戸締まりはしっかりして下さいね。あと、明日は私が来る前にちゃんと起きてて下さいね! 私は家政婦じゃないんですから!」

 はいはいと框の上で生返事をする新に、玄関扉から半身を出して、挨拶をする。

「それじゃ、お疲れ様でした」

 ――と、玄関戸を閉めて背を向けようとし。

「ユウ」

 その背を、新が呼び止めた。
 なんですか、とばかりに隙間から顔を覗かせた優奈に向かって。

「また明日な、ユウ」

 新が声を掛ける。
 その赤い双眸が一瞬光ったように見えたのは――きっと気のせいだろう。

「? はい、お疲れ様でした」

 今度こそ扉を閉めて、優奈は事務所を後にした。
 駅に向かって早足で歩いて行く。

 最寄りの梛理駅まで、徒歩二十分弱。近くを通る路線バスはなし。タクシーを使うまでではないが、豪雨だったら使いたくなる。多少は慣れたが、毎日歩くには少しめんどくさい距離感。

 そんなところに、妖崎あやかし法律事務所はある。

 ――コツ。

 ふと優奈は、背後で誰かの足音がしたような気がして振り向いた。けれど暗闇にじっと目を凝らしても誰の姿も見えないし、カーブミラーにも何も映っていない。

 梅雨時。湿度を帯びた空気が、じっとりと身体に纏わり付く。

 立ち止まったのは数秒。優奈は電車の発車時刻を思い出して、再び急ぎ足で歩き始めた。
 カツカツと、人気のない住宅街の路地に、パンプスの音が響き渡る。

 今日も、夜が更けていく。

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