【メモ】生きる「意味」と生きる「価値」 ②

2022.02.08

生きる「意味」と生きる「価値」
① (Link)(前回)
② (Link)(今回)
③ (Link)

4. 「市場価値」における「正の価値」「無価値」「負の価値」

本題である「希求的価値」に行く前に、
「市場価値 = 今現在の横並びの比較の価値」
の見落としがちなポイントに触れておきます。

それは、「無価値 = 悪」ではないということ。

横並びの比較 "だけ" に意識が向いてしまうと、
「価値があること = 善」であり、
「無価値であること = 悪」という考えが刷り込まれてしまいます。
この考え方の根本には、「100 = 最高、0 = 最低」という、
数値的な評価が影響している(と僕は勝手に思っています)。

しかし、この考え方には根本的な欠落があります。
それは「マイナスに働く価値 = 負の価値」です。

例えばそれは災害であり、誰かの悪意の被害に合うことであり、
最も端的に表現すれば、
「ネガティブな状況に変える力 = 憎悪」
のことです。

「負の価値」の視点を取り入れることで、
「無価値 = 0 =最低」という思考から脱却して、
「無価値 = 0 = ポジティブでもネガティブでもない中立的状態」

という思考に入ることができます。

言われてみりゃ、そりゃそうだっていう話です。
スクールカーストにおいて、陽キャ = 善、陰キャ = 悪のように勘違いしてしまいますが、実際には人をいじめたり貶めたりするような人こそが「負の価値」であり、良くも悪くも影が薄い人は、あくまでも「どっちでもない人」なんです。

なぜ、「負の価値」という視点を取り入れることが重要なのか?
「価値がある状態 = 善、無価値 = 悪」という思考状態だと、
常に "価値がある状態" を維持することが求められるだけでなく、
"無価値" の状態は避けなければならないわけです。
だって、無価値 = 悪だから。

しかし、「負の価値」の視点を取り入れると、
・避けなければならないのは「負の価値」= 他者に対してネガティブに働く状態
・「価値がある状態 = 正の価値」は常に維持しなければならない状態ではなくなる
・基本的には「無価値 = どっちでもない状態」が基本になる

つまり、「無価値 = 悪」から、「無価値 = 基本状態」になります。

…めっちゃ気楽になる思考です。


5. 希求的価値とは?

しかしながら、「負の価値」という視点を取り入れることにも問題があります。

「価値がある状態 = 善、無価値 = 悪」という思考は、
行動することへの強制力を生み出し、強迫的に "価値がある状態" を維持させようとします。
これは精神的には辛く効いてくるわけですが、
労働という場面では有効にも働きます。
なぜなら、労働の対価としての賃金は "価値がある状態" でないと発生しづらいから。

だから、「価値がある状態 = 善、無価値 = 悪」という思考は、
強制力として働く一方で、生活の糧を稼ぐための原動力としても働きます。
この価値観によって、苦しめられていると同時に、生かされてもいる
このように指摘されると、ギクリ!と来てしまう人も多いのではないでしょうか?


先程の「負の価値」という視点。
これは、自らを苦しめる "価値がある状態への強制力" からは逃れられる一方で、
"正の価値という状態に向かう原動力" をも同時に失ってしまいます。

平たく言えば、「何のために頑張ったらいいんだい?」ってこと。


そこで提案したいのが、「希求的価値」という概念です。

これは、まさしく先程述べた、
"正の価値という状態に向かう原動力" そのものです。


6. 「希求的価値」= 実現可能な「目標」ではなく、原理的に到達不可能な「方向性」

ここから、さらに抽象的な話に突入していきます。

「希求的価値」という感覚を掴んでもらいたいと思うので、
あまり好ましくはないですが、僕自身の例で考えてみます。

例えば、「医者になる!」という目標を設定します。
そうすると、生命科学の勉強をしよう、英語の勉強をしよう、
というモチベーション = 原動力が生まれます。

この場合、「医者になる!」という目標設定がなければ、
生命科学や英語の勉強をするモチベーションは単純に「興味」だけになります。
(自分から勝手に動き出すモチベーションが "欲求" と考えています)

(尻切れトンボになっている)欲求の話はこちらから
Part 1 コペルニクス的転回

一方で、誰かに「医者になりなさい」と強制されれば、
これらの勉強は強制力が働いて義務的なものになってしまいます。
しかし僕の場合は、最初に「医者になりたい!」という目標があるので、
これらの勉強は興味本位の "欲求" とも違うし、
誰かにやらされる "強制力" とも違います。

これはなんと呼べばいいのか?
僕はよく知らないので名前はわかりません。
ニュアンスで表現すれば、「未来(目標)から引っ張られる力」
というかんじ。
お腹に紐がついていて、自分が進んでいく前の方から
ぐいっ、ぐいっと引っ張られる感覚です。


さて。
それでは、この「医者になりたい!」は僕がいっている「希求的価値」なのか?
それは、違います。

なぜならば、「医者になる」という目標が達成されるとそこで終点だからです。

難関大学に入ったのに、そこで燃え尽きてしまう人ってよくいますよね。
あれは、単純に過酷な受験戦争で燃え尽きてしまったのではないんですよ。
彼らは、「終点に到達した」。
だから、燃え尽きるべくして燃え尽きているんです。
"その先" ってものがないから。

「〇〇という状態になりたい!」という「目標」だけで考えていくと、
必ず限界を迎えます。
それは、原理的に仕方ないのです。
だって、到達可能なところに終点を設定しているから。


ではどうしたらいいのか?
答えは簡単です。
「最初から原理的に到達不可能」なものを指針にすればいいわけです。
そうすれば、最初からゴールには到達できないわけですから、
逆にあらゆる「目標」は「通過点」ということになります。

日本の地理で例えれば、
東京から「北海道に行こう!」とする人は、北海道に到達したらそこで終点です。
でも、
東京から「北に行こう!」とする人は、北海道に到達したら次はカラフトを目指します。

北極星のように、原理的に到達不可能だけど、自分自身が進む「方向」を示してくれるもの。

それが、僕が提案する「希求的価値」です。


では、僕にとっての希求的価値とは何か?
それは、「この世界から愛着障害を含めたあらゆる精神疾患をなくすこと」
こんなの、絶対に無理に決まってるじゃん笑。
それくらいが「希求的価値」にはちょうどいいんです。

では、その「希求的価値」はどうやって見つけたらいいのか?

文量が多くなってきましたので、そちらはまた次回に。

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