【メモ】生きる「意味」と生きる「価値」 ①

生きる「意味」と生きる「価値」
① (Link) (今回)
② (Link)
③ (Link)

2022.01.24

久々の更新です。

0. 前置き

メンタル的に辛いときって、
「生きてる意味、あるんかな?」とか
「自分には生きている価値があるのか?」
とか思っちゃいますよね。

果たして、この疑問に良い解決策があるのだろうか?

絶望的な答えを言ってしまえば、
「そんなもん自分で見つけるもんだろ。
自分で考えろ」
というハードモード回答になります。

だけど、多少なりとも希望の道を開く答え方をすれば、
「そもそも、生きる『意味』と、生きる『価値』の違いを
ガッツリ考えたことありますか?
まずはその違いを理解するところから始めましょうよ」

というハードモード(サポート付き)の回答もできます。

そんな話です。

1. 「意味」=「中身」ということ!


そもそも、『意味』という言葉の「意味」を考えたことあります?

まずは「意味」のニュアンスを感覚的に理解します。
一言で言えば、それは「中身」です。
「言葉の意味を調べよう」
「自分の言ってることの意味わかってるの?」
「意味のある人生だ」
どれも、「意味 = 中身」と言い換えても成り立ちます。
というか、言い換えたほうが正確なニュアンスが理解できます。

例えば、「生きる」ということがポテトチップスの包装袋のようにパッケージされたものだとすれば。
「生きる『意味』」を考えるということは、このポテチの中身は何味なのだろう?
と考えることに近いわけです。


そうすると、「生きる『意味』はあるのか?」という質問にはこのように答えることになります。
「意味ってのは、『中身』のこと。
自分の人生に中身があるかどうかは、
『過去をしっかり振り返って自分自身でその充実度を確かめる』
以外に方法はないんじゃない?」

とりあえず、自分のポテチを食ってみろってこと。

このように考えると、僕が提唱する「愛情と感謝のサイクル」が機能します。
どれくらい過去に感謝できるか?
自分自身、自分と関わった他者や物事。
その感謝の程度が充実度なんだから、
生きる『意味』 = もらった愛情の度合い
というところまで考えが到達します。

このあたりの解決法は、改めて僕のnoteを読んでいただきたい。
愛着障害克服記録
Part 11「無の克服」
Column 6-3 (仮) 「最終回 無条件の愛とは?」

2. 「価値」 = 「外側の関係性」ということ!


一方で、「生きる『価値』」を考え始めると、なかなか難しい。

根本的に難しい理由について考えを突き詰めた結果、
僕はシンプルな考えに到達しました。

「『価値』という言葉には、
本質的に異なる3つの概念がごちゃまぜになっていまっている。
まずは、ここを切り分けて理解してみよう」

正式な呼び方や、学術的なものがあるかは知りません。
だけど、暫定的な考えとしては役立つと思います。

どのように考えるかというと、
まずは「過去」「現在」「未来」の時間に分けます。
そして、それぞれを次のように考えます。
「過去に基づく価値 = 生き物の基本的価値」
「現在の横並びの価値 = 市場価値」
「未来に向かっていく価値 = 希求的価値」

2-1. 過去に基づく価値 = 生き物の基本的価値


これは、平たく言えば「生きてるだけで価値がある!」ということ。

だけど、この場合の価値が意味するところ (= 中身) は、
「今現在生きているあらゆる生物は、太古からの生命の歴史を背負っている。
その時間的な積み重ね、そして系統が死に絶えることなく現在まで続いている」

ここに価値を見出しているわけです。

逆に言ってしまえば、
自分自身も、隣に住んでるおじさんも、近所を歩いている猫ちゃんも、
せっせと食べ物を運んでいるアリさんも。
全ての生物が全く等価な価値を持っている、ということです。

つまり。
過去に基づく価値 = 生き物の基本的価値
は、他者との比較に用いることはできない、あくまでも個人個人がそれぞれで自覚すべき内容なわけです。

しかし、この価値は大事なことを教えてくれます。
あらゆる生き物には、生き物としての基本的な価値がある。
だから、正当な理由なく他の生き物を殺す権利は誰にもない

もし子どもに「どうして人を殺してはいけないの?」と聞かれたときに、
もっとも本質的な答えになると思います。


2-2. 現在の横並びの価値 = 市場価値


一般的に、「生きる『価値』」を考える時は、
ここでいう「市場価値」を指しているかと思います。

そもそもどうして「生きる『価値』」を考えたくなるかといえば、
現代の社会に生きるほぼすべての人間が、
他者との優劣で比較される、「市場」に放り出されてしまっているから。
物事の考え方のベースが、「他者と比べてどうなのか?」というマインドになってしまっていることの裏返しが、「自分には価値があるのか?」という意識を呼び起こしてしまうわけです。

結論から述べれば、
現代社会で生きている限り、この考え方から逃れる方法は皆無

こうやって割り切って考えたものが、
価値がある (お金が集まってくる) = 勝ち組
価値がない (お金が集まってこない) = 負け組
という風潮ではないでしょうか?

ここで、先程のポテトチップスの例えを出してみましょう。
1番目に述べた、「過去に基づく価値」
これは、1つ1つのポテトチップスに、じゃがいもだったころの歴史、ポテトチップスに加工された歴史があるんだ!という話です。
でも、世の中には自分のポテトチップス以外にも、誰もがポテトチップスを持っているわけです。
だから、「ポテトチップス持ってるよ!」ってのは何のアピールにもならない。

2番目に述べた「現在の比較の価値= 市場価値」を例えるなら、
どうやって自分が持っているポテトチップスを、他者に「食べたい!」と思わせることができるか?
と言い換えれます。

そうすると、
「現在の比較の価値 = 市場価値」をたくさん得ることができれば、
「自分は生きてる価値があるな!」
という感覚を持つことができます。

そうやって言われると、
「よし、そしたら、あんたのいう市場価値ってのを目指してがんばればいいんだな!」
という気持ちになります。

でも、よくよく考えてみましょう。
わかりやすく年収で考えてみます。
最初は、「年収200万だから、300万目指すぜ!」
200万だと生活するのも大変ですから、300万になったらありがたい。
そしたら次は500万?
次は700万?
上に行けば行くほど、さらに先に行くのは大変になる。
なにより、500万になったらなったで、
それを維持するのがそもそも大変!
なんです。
500万になったそれで終わりじゃなくて、
そこから水準を下げることなく500万を維持する必要がある。
しかも、自分が現状を保つだけでは不十分です。
なぜなら、その「市場価値」を狙っている人は他にもいるから。
「市場価値」ってのは、常に奪い奪われあう椅子取りゲームの価値です。

そのような、殺伐とした椅子取りゲームを繰り返していると…

ふと思ってしまうわけです。

「自分の人生に、生きてる『意味』ってあるのかな…」って。

堂々巡りの始まりです。


3. 「堂々巡り」の解決策はあるのか?

こいつは困った。
どうしたらいいんだい?

おっ、そろそろお時間ですね。
続きはまた次回に。

解決策は、「未来に向かっていく価値 = 希求的価値」です。

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