オンボロ長屋の角を曲がると、ピアノの音が聞こえてくるよ。

決まって午後6時のことだった。駅からの帰り道、パン屋さんの角を曲がるとピアノの音が聞こえてくる。父は楽しそうに言った。

習い事をひとつくらいは

お金がかかるので、習い事はさせられない。その方針がなぜ変ったのか、わたしは知らない。ただ、近所のお姉さんが同じ頃にオルガンを習い始めたのは記憶している。

ピアノの音が大好きなので

オルガンを一年習うと、自動的にピアノを習うことになる教室に通っていた。オルガンはお下がりのものが家にあったのだけれど、ピアノはもちろんなかった。

ピアノを習うならピアノがほしいと思った。ピアノの音とオルガンの音は全然違うからだ。強くたたくと大きな音が、そっとたたくと小さな音が、自由自在にいろいろな音が出るピアノの音が好きだった。

母との約束をして

「絶対やめないからピアノ買って」とわたしは母に頼み込んだ。我が家にとってピアノの値段がどれくらいになるのかをわたしは知らなかった。

父は何度も激高した。「子どもにはこんな高いもん買ってやって、僕の小遣いはこれだけか!」。ピアノが高いということを、この父の怒りで知ってはいた。

無理をして買ってもらったピアノの音は美しくて、習っていない好きな曲を弾いたり適当に鍵盤を叩いて音を出すのが好きだった。それでも発表会では中高生の部に出してもらえるくらいには成長した。

母はわたしをピアニストにしたいと考えていた。

知らなかったピアノの値段は

今更ながらピアノは、いったいどれくらい高かったのだろう。

二日前に、ここに書くためにピアノの金額を母に聞いた。すると13万円したという。びっくりした。

とはいえ収入はいくらだったのだろう。それも聞いてみた。当時、母は専業主婦として財布を握っていた。父の給料はというと、一か月で2万3千円くらいだったという。

え。

目が点になるとはよく言うが、本当に目が点になった。

ピアノを買えたのはわたしの腕のおかげと母は笑いながら自慢した。

選択を迫られた小学六年生は

地域の子ども会ではソフトボールチームを作っていた。わたしも小学四年生の時に参加した。ルールを全く知らない状態から始まったけれど、いつしかソフトボールは生活の一部になっていった。

小学六年生になった時、わたしはセカンドを任されるようになっていた。地区大会が近づいて、練習も厳しくなってきたある日、たいへんなことがわかった。

地区大会の日とピアノの発表会の日が重なるのだ。迷うわたしに母は詰め寄った。すると父が、三年に一回しか発表会のないようなピアノはやめてしまえと言った。わたしは父の言うことを聞いた。

ラクな方を選んだのだ

ソフトボールは実を結び

重大な決意で臨んだためか、いや、ピッチャーが頑張ったからだが、わたしたちのチームは地区大会で優勝した。その後、市の大会に出て一回戦で負けてしまったけれど、爽やかだった。

子ども会の役員として、ソフトボールの練習に毎日つきあった母は、地区大会で優勝して困ったらしい。まだまだたいへんな日が続くのかと思ったからだ。それなのに、負けた時にはずいぶんと悔しがっていた。

ピアノはわたしの糧となって

結局、やめてしまったピアノだけれど、意外なところで役に立った。大学生になってワープロを使い始めた時にタイピングの練習をしたら、メキメキ上達したのだ。

パソコン通信のチャットでは周囲も驚く異常な早さだった。

気がついたら、入力業務が自分の仕事になっていた。

ピアニストになって食べることは出来なかったけれど、キーボードを叩くことが生活の糧となったので、悪くもないかと思っている。


ただ、母に「ピアノをやめたくせに」と言われるのは辛かった。自分が悪いとわかっていても。



【シリーズ:坂道を上ると次も坂道だった】でした。


写真は「みんなのフォトギャラリー」からお借りしました。









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