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大学進学の前にそびえ立つ学費と偏差値と父親の壁。なんとかなるとは思えないままになんとかしていくしかなかった。

高校で十分だという父の恨み

父は、わたしの大学進学に反対だった。理由は簡単だった。自分が大学に行けなかったから、娘のわたしが大学に通うのは贅沢だというものだ。

父は6人兄弟姉妹の長男だった。貧しい田舎町の長男には例え成績優秀でも大学に行かせてもらう余裕はなかった。末っ子の弟は母親に可愛がられて、大学にも行くように言われたのだけれど、勉強が嫌いだったので高校を卒業したら就職した。

このことが父のプライドを激しく傷つけた。だからわたしが大学に行くことも許さなかった。

大学で友達をと願う母の気持ち

けれど母は、わたしがかなり幼い頃から、わたしには大学に行くようにと言っていた。理由は、大学に行けばきっといい友達が出来るからという不思議なものだった。自分が中卒だからわたしには学歴を持たせたいと思ったのもある。わたしの人生はだいたい母が決めたものだった。だからわたしも父の言うことより母の言うことを聞くことが比較的多かった。

母の意見と父の意見が一致することはあまりない。お互い全く違うことを言うので、わたしはいつも、どちらか自分にとって都合のいい意見を取り入れていた。常々ラクな生き方を選んでいた。

ラクに生きる代償に、平穏な家庭には恵まれなかった。毎日のように両親は喧嘩をして、毎日わたしは離婚の危機におびえていた。離婚したらどちらについていくかを小学生になる前から考えていた。

喧嘩の原因のほとんどは経済的なものだった。当時、我が家は本当に貧しかった。子どもはひとりしか育てられないという理由でわたしは一人っ子になっていた。お小遣いをもらった日に、お小遣いを返すから喧嘩をやめてくれと泣いて頼むこともよくあった。駄菓子を買うくらいのお小遣いでは足りない問題なのだけれど、わたしは真剣だった。

とにかく父は働かない人間だった。一応会社には通っているものの、朝はギリギリまで起きないし、休むことも多かった。毎朝わたしが父を起こして仕事に行ってくれと説得していた。

父は、あの時、大学に行かしてくれていたらと時々言う。未だに言う。もう86歳だ。しつこい。

ぼんやりと考えていた大学進学

父が大学に行けなかったことを恨んでいるのを知っていて、逆にわたしは大学というところに興味を持った。高校までとは全く違う勉強が出来るというのが魅力的だった。

何を勉強するのかを意識しないままに、進学を考えていた。ただ、大学に行けば、どうして差別が世の中からなくならないのかを勉強できるのではないかとは思っていた。

話は横道に。我が家にはお風呂がなかったので銭湯に通っていた。母と二人で銭湯に行くのだけれど、時々、銭湯の一画が妙に空いていることがあった。どうしてなのか母に聞いても教えてくれなかった。近所のおばさんに聞くと、「あの人はキチガイやから近くに行かん方がええねん」と教えてくれた。

「キチガイの近くに行くな」というのは、キチガイの人を差別しているのではないかとわたしは思った。思ったけれど、だからといって何をするわけでもない。ただぼんやりと考えていた。

「社会学」を学びたいー「社会学部」はどこにー

大学受験が具体的になる頃に空から降ってきた目標が「社会学」だった。けれど学習院大学に進学するのは無理だった。金銭的にも偏差値的にもどう考えても無理だった。それで家から通える範囲で社会学を勉強できる大学を探した。すると「社会学部」というものが存在することを知った。国公立では一橋大学にしかなかった。これまたどのみち無理な道だ。

しかしやる気があるというのはすごいもので、通える範囲に社会学っぽいことを勉強できる大学を見つけた。偏差値的に相当な無理があったのだけれど、第一志望は社会学っぽい学部にした。それでも模試にはハッキリと無理!という判定が出る。

やむなく社会学部のある私立大学も探した。通える範囲で二カ所もあって、幸運なことに比較的学費が安かった。とはいえ、国公立大学の学費が安かった時代なので、私立に行くと四年間で一桁違うくらいの金額になった。

問題はまだあった。本命が国公立の場合、私立大学は滑り止めとして受けるものなのだけれど、わたしの成績はひどいものだった。滑り止めどころか合格自体怪しかった。でも浪人するお金はどこにもない。勉強するしかない。もちろん独力で。

父に怒鳴られながらの受験勉強に

突然だが、当時わたしが住んでいた家の間取り図を書いてみた。文字が小さいのだけれど、この図の一番右端がわたしの部屋だった。トイレの横に勉強机と椅子を置いたらいっぱいになる空間だった。

家族が寝ているのは、その左隣の六畳間で、わたしの部屋と六畳間を仕切っているのはガラス戸だった。夜遅くまで勉強していると、電気スタンドの明かりがまぶしくて目が覚めた父が、ガラス戸をバシンッ!と開けて、「そんなに勉強せな行かれへんような大学やったら行くな!!」と怒鳴った。その度にすぐ電気を消して勉強を中断して寝た。

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何度も怒鳴られながら勉強する日が続いた。思うように勉強が出来ないという話をRにしていたある日、思わぬ提案をしてくれた。

ガラス戸とわたしの部屋を仕切る遮光カーテンをつけてはどうかという案だった。早速二人で都会の百貨店に行って(ニトリもなければイケアもない時代、ほしいものは百貨店に行って買うしかないと思っていた田舎の子)、信じられないお値段の遮光カーテンを買った。この時のカーテン代をどうやって捻出したのか、思い出そうとしてもわからない。

頑張って買っただけあって、父はこれなら寝られると喜んだ。それでも定期的に「そんなに勉強せな行かれへんような…」と怒鳴った。仕事で何かあった時にそうやって憂さ晴らししていたということが後々わかって、今度はこちらが怒鳴りたい気分になったものだが忘れよう。

滑り込んだら3点差

結局、国公立は見事に落ちて、滑り止めにならない滑り止めの私大に合格した。高校で資料の整理を頼まれた時に、大学から来た採点一覧表を見つけてしまった。見ると、なんとわたしはギリギリで合格していた。3点足りなければ落ちていた。3点というと問題で言うと一問になる。あとひとつ間違えていたら、あの大学には行っていなかった。

資料を見た時には良かったと冷や汗が流れるような思いだったけれど、今はあの3点で落ちていればもっといい人生を送れただろうと思ってしまう。人生に「もし」はないけれど。

夢も希望も坂道を上る

入学式の日、わたしは大学に向かう坂を上っていた。晴れ着の女子がチラホラいたけれど、男子が圧倒的に多かったので、これからの生活に胸が躍るようだった。

この日のこの時が、わたしの人生で一番素直に喜びを感じていた時かもしれないと、半世紀の人生を振り返って思う。まさかこの数時間後に、思わぬ方向に進んでいくとは想像もしていなかった。



【シリーズ:坂道を上ると次も坂道だった】でした。


地味に生きておりますが、たまには電車に乗って出かけたいと思います。でもヘルパーさんの電車賃がかかるので、よかったらサポートお願いします。(とか書いておりますが気にしないで下さい。何か書いた方がいいと聞いたので)