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私のストーリー/人よりも遠まわりでも自分らしく

面白くないと書きましたが、

面白くしていきます。

こんにちは。ふじこです。

Noteを作ってみることにしました。

長くなるかもしれませんが、

ご勘弁ください。

私は、人よりも遠回りしているかもしれない人生。

人より遅れているかもしれないけど、

今は、最高に楽しいです。

これから

本気でチャレンジしたい人、

世界に向けてトライする人、

新しいキャリアを考えている人、

新しい自分に出会いたい人

目標設定して着実に前に進みたい人

に向けて発信をします。

大阪府八尾市で生まれる

私は、4人家族の長男に生まれました。

実家は、BtoB中心の花農家でした。

花を市場から買い付けたり、海外のタネや苗を栽培したものをホームセンターや花屋さんに売ってもらうビジネスです。

私の叔父が創業し、父親が経営を継承しています。

生まれた時からわんぱくタイプでした。

小学校に入るまでは、ウルトラマンが大好きで、

家にあるアルバムには、ウルトラマンポーズをしている物ばかりでした。

水疱瘡の時には、

裸でもウルトラポーズをしていたのは、内緒です。

ワクワク、小学校生活

小学校では、運動大好きで、先生にいつも怒られている典型的な子でした。

小学4年生の時に初めて人を好きになり、”両思い”に初めてなりました。

教室で手紙の投げ合いをしたり、隣に座ったり、

休み時間のキックベースに応援してくれる子が沢山いました。

今、振り返ると一番モテていたのかもしれません。

地元の中学ヤンキーとも仲良く、

外で良く野球をしていました。

しかし、小学6年生になると、

自分の好きなことに制限が生まれてき、

家族に勧められていた塾に頻繁に通うようになります。

思春期でニキビなども出来てきて、いじられるようにもなってきました。

行きたくもない塾へ通い、夜遅くに帰ってくる生活を続けていました。

受験前には、大好きだった野球を辞めて、中学受験に挑みました。

いよいよ、思春期の中学生に

中学受験は、見事に失敗をしました。私は、野球がしたかったので、

野球部がある中高一貫校を希望していました。

しかし、唯一受かったのが、偏差値の低い中学校でした。

私は、その中学校へ行こうとしていました。そして、新しい中学生活にワクワクしていました。

しかし、蓋を開けてみると、

野球部が無く、男子のみ、

有名中高一貫の男子校でした。

実は、補欠合格として、家族が希望している学校に入れることになったのです。

今もこの状況で何が起きたのか、分かっていません。

ここから、家族との会話が一気に減ってくるようになってきました。

中学1年生では、今でもお世話になっている厳しい先生の担任でした。

相変わらずヤンチャをしていて、入学式当初から、クラスメイトの名前で遊んでしまい、

みんなの前に立たされて怒られました。これも良い思い出です。

中学2年になるにつれて、女の子に強く興味を持つようになり、

さまざまないざこざに巻き込まれるようになります。

当時に流行っていた、「女の子を紹介するふりをして、男の子と連絡を取っている状態」なども頻繁に起きました。

初めての彼女も出来ることもあり非常に楽しんでいました。

また、部活は、ハンドボールの副キャプテンをしていました。

すくすくと育ち、高校受験がありました。

勉強など全くしてこずに過ごしてきたので、

高校入試の基準に満たされませんでした。

しかし、中高一貫だったので、

エスカレーター式に高校へ進学することになります。

迷走していた、高校生時代

高校生の初めは、本当に楽しくワクワクしていました。

部活も続けると決めていましたので、

早速レベルの上がる練習に毎日が忙しい状況でした。

夏休みになる前のある日、私の父親が食事の時に

「おい、お前、夏休みドイツ行くか?」と言われました。

私は、好奇心旺盛で、知らないことに興味津々のタイプです。

こう答えました。

「おう、行く」

それ以外の回答は、ありませんでした。なぜなら、海外という異国の地で自分に何が出来るのかを知りたかったです。

しかし、現実は、そんなにスムーズにいきません。

高一の夏に抜ける部員は、他の人から見るとどうでしょう?

「あいつ、海外へ遊びに行くらしいで。」

「俺らキツい練習耐えているのに、無理やろ」

と反対されていましたが、私は、ドイツへ行く意思表示をして、

夏休みの2ヶ月間は、ドイツの農業会社でホームステイをしていました。

人生を変革する、初めての世界を16才で体験

初めて海外で過ごすことになりました。

私は、飛行機に乗ることがワクワクし、胸を踊らせていました。

「世界中に友達を作って、将来は、絶対に面白いことをする」

とよくありそうなことを思っていました。

とはいえ、全く言語力がなく、ただ農業の会社にほっぽり投げられた感じでした。

私の担当してくれた人は、ベトナム系のドイツ人で非常に優秀な方でした。

花のことを一から教えてくれたり、農場を案内してくれたりしました。

朝のミーティングに参加させてもらったり、

学生がアルバイトで来ていたので、一緒に作業をしたり、

オランダやベルギーなどの契約先の会社に訪問したりしました。

それだけでなく、彼の愛車のアウディTTで広大な土地をドライブしてくれました。

ホームステイ先の方の会社なので、

昼休みには、経営会議に参加させてもらったりもしました。

そして、ホームステイ先のファミリーの催しに参加したり、

16才からお酒が飲めるドイツで本場のビールを飲むこともありました。

こんなに明るい話だけでは、ありません。

こんなにも楽しそうに綴っているのですが、

私は、全く自分の意見を発言出来てないのです。

というか、英語とドイツ語ともに全く知りませんでした。

私は、お母さん、お父さん、娘、社員の方と意思疎通が出来ずに

悔しくて、自分の部屋で泣いていました。

「明日に話す文章を拙い英語で考えました。」

「どうしたら、大阪の血を生かして笑いを作れるかな?」

沢山悩みました。自分のちっぽけさに悔しくなりました。

そうこうして、帰国する際は、寂しいすぎて、大泣きしました。

そして、無事に日本に帰国しました。

想像もしていなかった、私の心境の変化?

夏休みが明け、高校に戻りました。

私は、心を踊らせて沢山のお土産を持って、学校へ行きました。

久しぶりに会う友達に話をして、お菓子を渡しました。

喜んでくれる友達も沢山いました。

ただ、部活の仲間は、あまり良く思ってくれませんでした。

部室に入った時に、「おい、海外で遊んで来たんやろ?」

お菓子配る前に、「今更、なんなん?」

と言われたように覚えています。

さらに、僕の周りは、一回り上手くなっていました。

私が到底追いつけないぐらいに、夏休みで成長をしていました。

私は、自分の海外へ行った選択を悔やみました。

親を責めました。

さらに、私の居場所がどんどん無くなっていくのに

気がついてきました。

そうして、部活を辞めることにしました。

その後は、社会人野球や、草野球を探しました。

何度か体験へ行き入ろうとしました。

しかし、自分に自信を無くしてしまいました。

何もやる気が起きなくなり、ただゲームをしたり、

友達とダラダラと遊んだりしていました。

そうこうして、大学受験がやってきました。

底辺の偏差値35からスタート

高校2年生後半まで、全く勉強をしてこなかったので、全く実力がありませんでした。

このままだとどこへもいけないと思いました。

私個人としては、英語や経営を勉強できる場所に行きたいと思っていました。

ただ、家族は、実家の影響もあり農業の大学を受験するように言ってきました。

気がつくと、家族がいつの間にか出願書を書いていました。

そして、合格通知は、「農業系の短大以外、全て不合格」

私は、本当についてない。

絶対に浪人して、もっと勉強したい。

とずっと言ってました。

しかし、家族は、聞く耳を持ちませんでした。

「入学金をもう払ったので、東京へ行きなさい。」

と母親に言われました。

私は、何も出来ませんでした。

自己決定要素が何もなく、非常に窮屈な状況でした。

とりあえず東京へ行くことになりました、2014年の3月でした。

いつの間にか、東京で一人暮らし

訳もわからず一人暮らしをすることになり、

いつの間にか東京に来ていた自分。

何がしたいのか

なぜ、ここに来たのか

将来は、どのように生きていくのか

ただ、将来は、世界に出たい。

ドイツで経験したような、

今まで見たことのなかった、

グローバルな組織を見てみたいと思うようになりました。

しかし、現実は、真逆。

自らで決めた進路じゃない、

東京には、若干18歳で、

ただ、「僕には、何かできる」と信じて動いていました。

私は、父が知っていた先生が在籍していた、

花の研究室に入ることとなりました。

ここでは、面白い仲間に出会いました。

熱帯植物が好きすぎて、どうにも出来ない人

私のように家業が農業で、実家を継承しようとしている人

その傍ら、インターンシップや、起業塾など

様々なことを転々としていました。

「私に何が出来るんだろう?ちっぽけな自分なんて嫌だ。」

とずっと思っていました。

自暴自棄から逃れていく、大学3年生

大学3年次には、同じ大学の農業ビジネス学科へ3年次編入を行った。

研究室は、私ともう一人以外が留学生だった。

常に英語を使ったゼミで、毎日ワクワクの連続だった。

しかし、私の英語力なんて、TOEIC300点レベルで

何も出来なかった。そんな中、大学の教授の紹介で

フィリピンへ英語留学に行くことになった。

少しずつコツコツと昔に抱いていた思い「いつか、海外留学して、

国籍の関係ない組織を創ってみたい」という夢を少しずつリアルにして

行こうと動いていました。

9月には、その経験を利用して、学校主催の国際サミットでグループリーダーを行った。

それでも、まだやはり何かが足らない。もっとやれることを増やしたい。

卒業が近づき、新たな出会いを経験

2017年の1月あたりから、就職活動を意識するようになった。

ある人材系の起業スクールへ入った。

仲間と単発の就活サポートのマッチングイベント行った。

上手くいった。40名の中でNo.1の売り上げがたった。

そんな中、就職活動を行いながら最終的に思ったことがあった。

「自己決定が全く出来ない」

今までの人生で、レールに沿ってきた。

私が考えてきたことで、

継続したことで、

何一つ達成したことがない。このままだと、やばい。

本当に不安になった。

今まで何をしてきたんだ。

生きている価値を感じれなくなった。

大きなことを言うくせに、行動が伴っていない人だった。

こんな自分自身を全く信用していなかったように思えた。

メンターとの出会いによって、自分を見つめ直すタイミング

就職活動も進み、最終選考などもチラつき始めた時に、

ある人に出会った。彼は、アメリカ留学をしており、

留学をサポートしている方だ。

彼は、初日に「そんな偽物のスーツを脱げ!」と言ってきました。

そして、私は、「世界に出てみたい」と言いました。

そしたら、「行きなよ」と言ってくれました。

親に反対され、

自分自身を信用出来ず、

周りと違う発想を持ってしまい、

それでも、可能性を考えてくれた唯一の方でした。

そこから私の修行が始まります。

まず、

「英語力ゼロからアメリカの大学院の入学レベル」

までが私の目標でした。

ここからが人生のスタートという感じでした。

就職をせずに、農業をしつつ海外の大学を目指す

私は、あっという間に大学を卒業していました。

それまで何をしていたのか?

ひたすら、

単語、文法、リーティング、リスニング、ライティング、

を行っていました。

そして、毎日、「私は、何に今日気づいたのか?」

ということを振り返りしていました。

恐らく、3年ぐらい自問自答していました。

農家になったときは、

朝8時から夕方17時まで必死で働きました。

毎朝200メートルぐらいの小さな山を自転車で駆け巡りました。

雨の時も、風の時も関係なかったです。

ついに、

「このままだったら、自分の強みを活かせない」

と感じるようになってきました。

毎日、山に籠り作業に邁進する。

これだと

私の得意なコミュニュケーションもない。

人と触れ合う機会も極端に少ない。

不安になりました。というか、絶望でした。

気が付いたら、東京でオフィス寝袋暮らし

目標のアメリカ大学院留学レベルの英語力にあと一歩足りなかった。

そして、農業という職業に絶望を感じていた。

いつの間にか、東京でお世話になっている恩師の事務所に居候していた。

毎日、朝に掃除をしていた。

松下幸之助は、

「掃除を完全にするということは、一大事業である」

とおっしゃっていた。

それだけでなく、

・セロトニンの分泌によりストレスが解消される

・やる気を補える

という力があります。

さらに、実生活でも役に立つことがあります。

1、必要なものかどうか取捨選択する
2、使ったものはもとの場所に戻す
3、効率化するための施策を検討する

これらは、仕事や勉強にも通ずることです。

床に寝袋と空気ベットを轢いて生活することが当たり前になってきた。

ようやく、念願のアメリカ留学へ

やっとの思いで、大学院レベルのTOEFL試験に合格をした。

そして、

私は、「アメリカの大学に一から入学する」という選択をした。

高校生の時に思った念願の海外留学、人生で初めての大きな達成感を感じました。

それまでにサポートしてくれてた人や、家族など全てが愛おしくなりました。

なお、継続し続ければいつか物事に成果が生まれることを知りました。

この経験を与えてくれた方に感謝です。

壮大な土地、面白い人がいるアメリカで学生をする

私は、胸を踊らせてアメリカのカルフォルニアに渡米をした。

世界一の会社

世界一のビーチ

世界一の農業大国

世界一の移民文化

世界一の経済大国

世界一の教育水準

ミーハーの私には最高の舞台だった。

本気で勉強しようと誓った。

しかし、現実は、大変だった。

学校以外で全く相手にされない。

授業中に発言しても先生に何度も聞かれる。

ルームメイトとの議論に勝てない。

ホームパーティーで3人のパーティーガールに打ち負ける。

しかし、図書館に籠る中で、

ようやくGPA3.9で成績優秀者が入れるクラブにも入っていた。

少しずつ人生が変わってきて、面白くなっている。

思いっきりアメリカ大陸の旅もしていた。

シリコンバレーへの訪問。

ドライブでビーチへ行く。

少しずつ面白い人生になってきている。

そう感じてきた。

ある日を迎えるまでは。

コロナパンデミックにより全てオンライン留学に

私の大学も3月にオンライン授業へと以降していった。

私は、大学で統計学と会計を教えていたのだが、

それらも全てオンラインへ以降されていった。

4月には、引きこもり状態になっていた。

当時のスケジュールは、

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7:30-8:00  ランニング

8:00-9:00 ルームメイトと朝活

9:00-12:00 大学の授業

12:00-13:00 お昼

13:00-17:00 大学の授業

17:00-18:00 ジムor公園へ走る

19:00-20:00 夜ご飯

20:00-24 勉強

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みたいなことを続けていた。

帰国しようと考え始める。

3月からコロナの影響が生まれて、

6月になり初めて、ふと思った。

「アメリカに来たのに、なんで家に閉じこもらないといけないのか?」

正直、よく分からない状況だった。

一方で、友人と私でオンラインでワクワクすることを始めていた。

「英語を話したい人と日本語を話したい人を繋げて世界中に新たな出会いを作ること。」

始めは、6人ぐらいしかいなかった。

しかし、段々と人が増えてきた。

その間にたくさんの人との出会いがあった。

今でも個人的に連絡する人も沢山いる。

その半年後には、総勢で300名以上、40カ国を超える場所から人がやってきていた。(現在は、メンバーを抜けている)


オンラインで広がる可能性を作るべく、邁進をした。

一方で、アメリカ留学は、終わりを向かえていた。

Caliculus(アメリカの大学数学)に大苦戦しており、

シェアハウスをしていたので整理整頓を始めた。(←こちらも詐欺まがいの現象が起きかけていた。)

車などの個人的に購入したものを処理していた。(←後から爆弾状態になるなんて思ってもいなかった。)

そうこうしていて、

8月の前半には、アメリカの西海岸旅をした。

そして、ついに8月後半に帰国することになった。

残念と思いつつ、これで正しい選択だと思った。

自信が付いている自分

今までと全く違った自分になっていた。

周りの行動があまり気にならない。

人と比べてもあまり意味がない。

個性は、個性を活かせる場所を作れば良い。

日本でも海外でも過ごせる可能性のある自分が存在する。

そうして、夢中になってオンラインを通した活動で起業を考えていた。

仲間3人で本気やろうとしていた。

しかし、ある時に

爆発してしまうことになることなんて知ることも無かった。

帰国して数ヶ月が経った。

私を面白いと思っていただける会社にお手伝いもしている。

私の実家にある会社みたいな零細企業や中小企業へ

IT人財を届けるサービスです。

https://treasurefoot.co.jp/

今は、お手伝いもしている。

同時に、コーチングに出会った。

「人の可能性を最大限に引き出してくれるような技術」

これは、私に必要だと感じた。

自分のように「何者にかなりたいけど、どうしたら良いのか分からない人」

にチャンスを与えれる人になりたいと思うようになってきた。

全てを抱え切ることが出来ない結果になる

そうこうしていると、

私のスケジュールがパンパンになってきた。

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ある平日

7:00-8:00 朝のオフィス掃除

8:00-9:00 日本語事業のサポート

9:00-13:00 就業

13:00-14:00 仮眠と昼食

14:00-17:00 就業

17:00-19:00 夜食、ジム、休息

19:00-22:30 学習塾でコーチ・自己学習

23:00-24:00 日本語・クラファン準備

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しかし、全てをやり切ることが出来ないことに気がついてきた。

オンラインでの事業に問題が生まれてきた。

どんどんチームでのコミュニュケーションが乱雑になり、

一人一人のタスクが多くなってきて、

周りに負担を持たせるようになってきた。

様々なことを同時に行うと、

責任レベルがどんどん低くなることもあった。

そのようなこともあり、同じメンバーで代表をしていた子が

「私と事業をやりたくない。」と言われた。

私は、すぐに彼の地元へ行った。

私自身も余裕が無く視野が狭かった。

そして、謝るべきことも沢山あった。

それに気づかせてくれた部分もあったので、

今は、感謝している。

ということもあり、

私は、「さらに力を付けて、次に活かされる精神性とスキルを身に付け、

戻るだろう。」という前提で、一度去ることになった。

後悔も少しある。しかし、私の人生で面白い経験だった。

これからもっと強くなっていかないといけない。

そして、周りに迷惑を掛けないようにしないといけない。

ここから、私の人生がまた始まる。

さらに面白いものをここに追加出来るように、

私も成長していく。

コアな情熱を形にしたい!と思っている人は、連絡をください。

現在、7月。

私は、新しいチャレンジを8月からスタートしていく。

これまた、日本の未来を変える出来事になりそうだ。




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