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2023/1/9 年末年始

あけましておめでとうございます。

結構久しぶりな気がする。1か月ぶりくらいの投稿である。本音としてはもう少し投稿頻度を上げたいがまあ年末年始は忙しかったということで。

入籍をしてクリスマスが来て年末年始と押し寄せてきた。
クリスマスは近年稀にみるほど退屈で、らしさの欠片もないクリスマスだった。

大学の頃からクリスマス付近になるとクリスマスキャロルを必ず見ていた。それがいつの頃からか見なくなった。今年は午後休みだったが特に予定もないし、外出するには街が混雑しているしでずっと家にいた。
せっかくだからクリスマス映画を見ることにした。久しぶりにクリスマスキャロルでも見ようかと思ったが、ほっこり笑いたい気分だったのでホームアローンを見た。きちんと見るのは初めてだったがそれなりに楽しく見ることができた。

しかし近年、家で映画を見ることが出来なくなってきた。何といっても集中力が続かない。ドラマやアニメを2時間見るのは苦ではないのに映画1時間半見るのはなかなか堪える。エネルギーというか内容が詰め込まれているためか、体力がもたない。飽きてしまう。映画館でなら集中を切らすことなく楽しく没頭できるのに。最近の課題である。

せっかくサブスクで色んな映画を見れるのに家で映画を見れない症候群のせいでもったいないことをしている。

引越しにあたってポップインアラジンを購入した。ソファーでゆっくりしながら大画面で見れるという環境の変化により少しは変わるだろうか、変わってほしいと願う。

さて、クリスマス映画は何故泣けるのだろうか。もちろん内容が感動モノというのはあるが、どちらかというと雰囲気にやられている気がする。ホームアローンでもどの場面は忘れたが感極まってしまった。暖かいような人恋しいような懐かしいような、ほっこりとした気持ちにさせてくれる雰囲気が心を打つ。

そもそも映画だけでなく、街並みを歩くだけでも心に来るものがあるときがある。イルミネーションなどの押しつけがましいほどのクリスマスらしさも好きだが、ちょっとしたらしさにも十分感動を覚える。

クリスマスが好きなんだと言われたらそれまでだが、少し違う気がする。もちろん嫌いではないし好きだけれど、好き=感動するというわけでもない。まあともかくクリスマスが醸成する雰囲気やその他諸々が温かい懐かしいで感極まるというわけだ。

結局クリスマスはぼんやりとお酒を傾けながら、ホームアローンを一本見て寝た。途中、友達と軽く電話しただけでそれ以外に何かした記憶はない。来年はもう少しらしさを感じたい。

年末年始は大学時代の友人と過ごした。去年は家族と過ごしたが、ここ数年ずっと続いているイベントだ。初めて開催されたのは5.6年前、僕が田舎へ引っ込んだ時だ。それがまさかこんなに続くとは思わなかった。あの時は皆東京にいたが、意外と皆バラバラになってしまった。京都へ行ったもの、イギリスへ行ったもの、近場だと神奈川へ行ったもの。そして結婚したもの。去年あたりから皆少しずつ忙しくなり半年ぶりの友人もいた。だが、一週間前も会ったかのような距離感で楽しく遊ぶことができた。

田舎なのでやることは限られており、ほとんど家で過ごした。温泉に行き、卓球をして、雪山へ行き、あとは家でのんびりと過ごした。4日4晩飲んでは食べた。そのせいか知らないが、15年ぶりにヘルペスが出来て困っている。

まさか大学時代の友人とここまで続くとは思いもしなかった。学生時代の友人なんてほんの一握りは続くが、社会人になれば社会人のコミュニティが出来て疎遠になるものだと思っていた。1年2年会わなくても溝は出来ないだろうし、会えばまた昔と同じように楽しくいれるだろう。しかし物理的距離が遠すぎると無理にでも会う機会を作らないと会わない。そしてそれが続くときっと疎遠になるのだろうと思う。固執するわけではないが、出来れば長く楽しく続けばいいなと思う。

周りを眺めると結婚しているものとそうでないものとで生活の違いが如実に出る。良いか悪いかではなく単純に結婚したものは家庭への比重が重くなる。転勤などの物理的距離に加え結婚が加わると更に会うのが困難になるのだろう。というか既に別のグループではそれが起きている。どうにもままならないものだ。今年から結婚生活が始まるので年末年始の集まりはなくなるのだろう。もしかしたら来年に復活するかもしれないがまだそれは先の話でわからない。

大学時代の友人の他に地元の友人とも会った。共通の話題は金だった。もちろん他にも結婚や共通の趣味の話題もあったがより生々しくそして強烈だったのが金にまつわる話だ。

仕事、転職、起業、投資その他諸々個々人によって考え方は別だが、皆将来に対する不安が根底にあり金と向き合っていた。ただ楽しいだけの話ではなくなってくるのが少し辛い。正直こんな時くらいはと思いつつもやはり皆不安だから話したがるのだろうか。それぞれの背景を知り、現状を知り、自分と照らし合わせる。ずば抜けて優れているものや劣っているものがいないのでまあ話しやすいと言えば話しやすいのだろう。デリケートな話だから人を選ぶし、仲が良いからこそできるとも言える。

僕として金ではなく酒との向き合い方に変化が訪れた気がする。

最初の頃は酒の味など碌にわからずそれでも美味しいとは感じていた。とにかく友人とはしゃぐためのツールでしかなく、友人と会えばとにかく飲む。それに尽きた。

それが一人で飲むようになり、バーや小料理やに行くようになると少し変わる。まずそもそもウィスキーが好きだと自覚したのでたくさんの種類を飲み、購入し、飲み歩いた。また、バーの雰囲気なども好きだったのでカクテルもたくさん飲んだ。

このころはとにかくお酒の知識を吸収して、経験をしたいという感覚だった気がする。もちろん友人と馬鹿みたいに飲むのも好きだったが、お酒と向き合うみたいな飲み方も良かった。何より自分の適量などがわかるようになったし、自分がそこそこ強いということを知ったのでとにかく飲むのが楽しかった。

しかし、このころから何か嫌なことがあったらお酒を飲むという癖がついた。今考えれば大したことではないが、当時の自分にとっては苦しかったのか何か嫌なことがあったらまずお酒。きっと友人などと馬鹿みたいにはしゃいで忘れることや愚痴ることで解消していたのだろう。しかし、わりにそのやり方は効いていたのだと思う。もちろんすべてが全てではないが少なくとも緩和されていた。

そこからしばらくはずっと同じスタンスだった。しかし、ふと、飲んでも問題が解決されるわけではないし無駄なのではと思うようになった。阿呆みたいに飲んで、はしゃぎ、人に愚痴り、次の日を無駄にする。そんなことをしている自分が嫌になった。楽しく飲んでいる気が、正しい飲み方ではないのではと思うようになり、何かを忘れるためや紛らわすために飲むのを止めた。

次はワインにハマった。すると今度は食事とお酒を如何に合わせるかということに拘り始めた。ワインでも日本酒でもウィスキーでも一緒に口にするもののことまで気を遣うようになり、如何にお酒と食事を楽しむかということがポイントになってきた。毎晩一本飲むというよりは、きちんとお金と時間をかける趣味に近い感覚になってきた。

というように変遷を連ねてきたわけだが、現状としては趣味に近い。しかし、最近、心の変化が起き始めている。高尚?な趣味のようにお酒と向き合うのも良いが、安酒でも何でもただ酔うために飲むのも悪くないのではと思うようになってきた。

昔に比べれば、ここ最近だけかもしれないが、現状としては生活も心も落ち着いているので嫌なことから逃れるためのお酒をすることはほとんどない。だが、昔みたいに酒の味など考えず酔うためだけにお酒を飲むことを恋しくなる瞬間が来る。

今でも許容範囲を超えて吐いてしまうことや泥酔してしまうことはあるがはしゃぐというようなことはない。どちらかというとお酒が弱くなり今までと同じようなペース、量で飲み気づいたらというパターンだ。
今年の年末年始も友人たちとたくさん飲んだがやはりはしゃぐというようなことはしなかった。いつの頃からしていないのだろうか。もう随分と前な気がする。そういった環境が失せたというのもある。今回のようにはしゃいでも誰にも迷惑をかけないというような状況でさえブレーキがかかってしまう。

昔は青かったと言われたらそれまでだが、正直その青さが恋しくなる。
本当にできなくなる前にもう一度してみたいものだ。
それでまた後悔をしてみたい。

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