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【プラハのドイツ語B級文学 読書ノート】ユリウス・クラウス『プラハ 民族対立と人間闘争の小説』

ユリウス・クラウス『プラハ 民族対立と人間闘争の小説』

 今回紹介するのは、前回、前々回に紹介したシュトローブルよりさらにマイナーな作家ユリウス・クラウスJulius Kraus (1870-1917)の『プラハ 民族対立と人間闘争の小説』(以下『プラハ』)だ(シュトローブルについては以下を参照)。

 作者ユリウス・クラウスについては非常に情報が乏しい。1892年に北ボヘミアのリベレツLiberec にあるフリードラントFrýdlant に市立博物館を開き、市長を務めた人物のようだが、同一人物なのかいまいち確信が持てない(22歳で博物館開設??)。郷土文学 Heimatliteratur という、当時のボヘミアのドイツ語文学界で多く書かれた、民族主義的かつ愛郷的な文学作品を書いた人物のようだ。
 実際『プラハ』も民族主義と愛郷主義をテーマにした作品である。1881年にプラハにやってきたターボル出身のチェコ人フバーチェクが、同時期に起こったチェコ民族の経済的発展の波に乗り、チェコ民族主義者として成功してゆく。その過程を軸に、彼と彼の周囲の人々がプラハにおける民族対立の波に飲み込まれてゆく様子が描かれている。
 シュトローブルがほとんどドイツ人にしか焦点を合わせていなかったのに対して、『プラハ』では主に物語を展開させていくのはチェコ人の登場人物である。また、ユダヤ系の一族の運命が物語の重要な筋のひとつとなっているという点も注目に値する(クラウス自身もユダヤ系のようである)。物語の後半では、シュトローブルの『ヴァーツラフ亭』で描かれた1897年のチェコ民族主義者集団とドイツ民族主義者集団の衝突が、チェコ人、ドイツ人、ユダヤ人それぞれの視点から立体的に描かれており、その点ではシュトローブルの作品よりも読みごたえがある。

あらすじ

クッヒェルバート(1881年)

 パラツキー河岸には、チェコ民族主義者たちが人だかりを成していた。モルダウ川河畔にあるプラハ郊外のクッヒェルバートで、ドイツ人学生とチェコ人学生の間に、負傷者と死者が出る大規模な乱闘が起こったらしい。警察が船着き場とそこに通じる馬車道を警備する中、チェコ人たちは、今日プラハに帰ってくるドイツ人学生のを待ち構えようと押し合いへし合いしている。そこに、ターボル Tábor近郊の村からプラハに来たばかりのフバーチェクがやって来て、人混みの中にいるクロウパに一体何が起こっているのか尋ねる。ほとんどチェコ人しか住んでいない村からやってきたフバーチェクには、クロウパの語るチェコ人とドイツ人の激しい対立状況がいまいち理解できない。
 一方船着き場には、ドイツ人学生の哲学科の学生マックスの叔父で工場主のアイヒラーを乗せた馬車と、ドイツ人の医学生オスカーの母フィシュル夫人と妹ローザを乗せた馬車がやって来る。船は真夜中頃に到着。出てきたオスカー・フィシュルは左目を負傷し、マックス・アイヒラーに手を引かれている。彼や他の重傷者は馬車で病院に運ばれてゆき、他の学生は警察官に伴われて家に帰っていく。チェコ人たちは馬車を倒そうとするがうまく行かず、馬車に敷石を投げ始める。それを見たクロウパの10歳の息子ペピークも、父が止めるのも聞かず群衆をまねて石を投げる。
 その後フバーチェクはクロウパのもとで一夜を過ごし、自分の母の伯母をたずねて旧市街にあるチェコ民族主義者の(だが、チェコ語はうまく話せない)マトウシェクの家を訪ねる。プラハで居酒屋を経営したいと思っているフバーチェクは、マトウシェクに、良い居抜き物件がないか聞こうと思っていたのだが、マトウシェクはあらゆる話を政治に結び付けてなかなか話が先に進まない。終いには「歴史家の話なんてどうでもいいんですよ」と言ってしまい、家を追い出されてしまう。
 結局フバーチェクは、プラハ郊外のジシュコフで見つけた物件を借りることにした。その物件のすぐ近くではクロウパ一家が食料品店を経営していた。その晩フバーチェクとクロウパ一家とクロウパ一家の友人で印刷業者のフェトカは共に夕食を取る。クロウパ一家は非常にチェコ民族主義的な家庭で、子どもにも民族主義的な躾を施している。実は、この日はクロウパの息子ペピークが行方不明になっていたのだが、彼はなんとグラーベン通りにあるドイツ人文化協会ドイツ・カジノの窓に石を投げつけて警察に捕まっていたことが後で分かる。
 さて、フバーチェクの新しい店の名前が話題になると、クロウパたちは口々にチェコ民族主義的な店名を提案する。結局新しい店の名前は「プシェミスル王亭」に決まる。反ドイツ・反ユダヤ的でチェコ民族主義的なクロウパ一家の雰囲気に、フバーチェクはどうもついていけない。
 クッヒェンバートの戦いは、当時多くの新聞に取り上げられ、以来チェコ人とドイツ人の対立はますます激しくなっていった。左目を負傷して入院したオスカーの家族はユダヤ系だが、その出自を密かに恥じていた。彼らは目下、ドイツ民族に同化するか、チェコ民族に同化するで揺れていた。フィッシュル家がドイツびいきであるのに対し、オスカーの叔父モーリッツ・タウスィヒはチェコ人が多く住むジシュコフで店を経営していることからチェコ民族に同化しようとしていた。
 その年の秋フバーチェクは、妻子と雌犬と、父親のいない子どもを妊娠している20歳の女中マリエ・ゼレンカを呼び寄せ「プシェミスル王亭」を開店。ゼレンカはその後里帰り出産をし、田舎の母に娘を託して「プシェミスル亭」で女中として働くことにする。開店から数日後、「プシェミスル王亭」にやってきたオスカーとマックスは、店の中庭で、出産して死にかけた雌犬と子犬を見つける。と、そこにゼレンカがやって来て死んだ犬たちを憐れみ、唯一命をとどめていた子犬を生かそうと、周囲の目もはばからずに自らブラウスを脱いで母乳を飲ませる。それを見たオスカーとマックスは、文化的に高度に成熟したドイツ民族は今や落ちぶれてゆく運命にあり、現在著しい発展を遂げているチェコ人に追い抜かされることになるだろう、プラハのドイツ人は、勢いのあるチェコ人たちに追い出されてしまうだろうと考えるようになる。

展覧会(1891年)

 それから10年の時が流れた。その間にフバーチェクは熱烈なチェコ民族主義者になっていた。ある日新聞で、プラハでチェコ民族の発展を表す展覧会が開催されると知った彼は、展覧会会場前にビール酒場を出店することにする。ジシュコフの店は妻に任せ、長男ヴェンツェルと女中のゼレンカ、彼女の娘で田舎から出てきたボジェナ、ビール注ぎとして雇っていたクロウパの息子ペピーク、印刷業者のフェトカに手伝いをさせた。ボジェナは、「プシェミスル王亭」の近所に店を構えるタイスィヒ家の息子ボフミルと恋仲にあった。そしてタイスィヒの息子ボフミルはヴェンツェルの親友だった。このように、ユダヤ系のタウスィヒ親子は着々とチェコ人と近づきになっていっていた。
 フバーチェクの出店のことは新聞に載り、10年前に彼を家から追い出したマトウシェクをはじめ、多くの知り合いが彼を祝いにやってきた。また、彼は故郷の子どもたち全員を展覧会に招待してまでいた。10年前は威張って政治談議をしていたマトウシェクも、フバーチェクを前に尻込みしていた。今やチェコ民族主義の流れは、マトウシェクのような老いたチェコ人ではなく、フバーチェクのような若いチェコ人が率いていく時代なのである。
 展覧会期間中、ゼレンカがどうやら仕事の後に街娼をしているらしいことが分かる。それを確信したフバーチェクは彼女を解雇しようと思ったが、ゼレンカに対して欲望を抱き、結局は彼女と不倫関係に陥る。元々田舎の農民であったフバーチェクは、プラハに出てきて政治と商売に詳しくなり、富を得た一方で、倫理的に堕落していくのであった。
 ある霧の日、客が全く来ないので、フバーチェクは出店を息子とペピークとゼレンカとフェトカに任せて街に出る。主人がいない間にペピークはまっすぐ歩けなくなるほどビールを飲んでしまった。4人はいつもより早く店を閉めて街をぶらつく。ドイツ人の喫茶店の前まで来と、酔っぱらったペピークは、店から出てくるドイツ人に絡む。これに怒ったドイツ人の客と4人の間で口論が始まる。警察官がやって来てペピークらを捕まえると、フェトカはドイツ人たちも連行するよう要求する。事情聴取の後すぐに解放されたゼレンカは、同じく解放されたフェトカを旧ユダヤ人街にある貧民窟に連れていき、そこで彼を誘惑する。しかし、フェトカはその安宿を見て驚愕する。宿の大部屋では貧民が床に寝転がり、部屋の隅では藁のベッドの上にいる娼婦に男が次から次へと飛び掛かっていた。フェトカは貧民窟を逃げだす。民族主義者フェトカにとって、プラハにこれほどの貧民が存在することは大きなショックだった。後日、ペピークとフェトカの行為をめぐって裁判が開かれた。ペピークが3週間の禁固刑を受けたのに対して、フェトカは、ドイツ人も連行するよう警察を煩わせたかどで3か月の禁固刑を受ける。

挿話(1891-1897)

 展覧会が終了すると、フバーチェクは、儲けた金で店を改装する。経済成長の波に乗った彼のチェコ民族主義はいよいよ熱狂的になっていく。彼は、「チェコ人は、ドイツ人から工業を、ユダヤ人から商業を奪い取って、ボヘミアの経済を手中に収めなければならない」と固く信じていた。フバーチェクや彼の友人たちは、この頃には、ドイツ人だけでなくユダヤ人に対しても密かに嫌悪感を抱き始めていた。フバーチェクは、タウスィヒの店をつぶすために、タウスィヒの店の向かいにクロウパの長男の店を開くよう仕向ける。クロウパ親子の店とタウスィヒの店の間では激しい競争が始まった。両店は新聞広告などを使って、自分の店を相手の店よりチェコ民族主義的に見せようと躍起になった。しかし、長年店を経営しているタウスィヒが商売上手だったのに対して、資本が不足していたクロウパの店はまもなくつぶれてしまう。
 フバーチェクの店の奥には、無政府主義者となったフェトカと、ペピークら民族主義者がしばしば会合を開いていた。彼らはハプスブルク帝国に対するチェコ民族の反発を示すため、毎晩プラハ中のポストに描かれた双頭の鷲を黒い塗料で塗りつぶす活動をしていた。ふたりはこの活動のために警察に捕まり、彼らの仲間がしばしばフバーチェクの店で集まっていたために、フバーチェクもしばらく政治的な活動に加わるのが難しくなってしまった。

黄金のスラヴのプラハ(1897年)

 11月のある小春日和の日、プラハではドイツ人学生のデモが開かれた。スミーホフに工場を持つマックス・アイヒラーの叔父は、ヴァーツラフ広場でこのデモ行進に出くわし、これに参加する。しかしながら老いたアイヒラーは、目的地のドイツ・カジノの直前で力尽きて倒れる。
 一方同日、フバーチェクの息子ヴェンツェルは、タウスィヒの息子ボフミルを誘って行進を見物しに行く。グラーベン通りには既にペピークが待ち構えていた。行進するドイツ人学生に対抗して、ヴェンツェルを中心としたチェコ民族主義者たちは宗教改革者フスの歌を歌いながら街を練り歩き、グラーベン通りに戻ってくる。そして、ドイツ系の店に石を投げ始める。その日の深夜に、ヴェンツェルが仲間を連れて「プシェミスル王亭」に戻ると、フバーチェクは彼らを英雄のようにもてなす。
 その後もヴェンツェルたちはドイツ人の店や家の窓に石を投げ続ける。彼らはまずマックス・アイヒラーのアパートの窓を割り、次に衣料品店を経営しているオスカー・フィッシュルの家に向かおうとする。ここでボフミルは暴力行為から手を引いて家に帰ろうとする。すると彼の仲間たちは、恋人のボジェナも含め、みな彼をユダヤ人として軽蔑する。
 彼らはフィッシュルの店を襲い、商品を強奪する。ボジェナは、展覧会後にフバーチェクの店を解雇され娼婦に身を落とした母ゼレンカと共に女性と一緒に女性用の衣類を盗む。オスカーの妹ローザが軍隊を呼び出して暴動は治まったが、彼女の店はボロボロになっていた。
 こうした状況を見て、フェトカは、民族主義というイデオロギーに絶望する。「我々がドイツ人を憎んでいたのは、ドイツ人が金持ちで、チェコ人が貧乏だったからではないのか? だとしたら、フバーチェクをどう考えるべきなのか? 我々は民族主義者である前に人間であらねばならない」と、彼はひとり主張する。
 チェコ民族主義者の暴走は収まることを知らず、とうとうタウスィヒの店も攻撃対象となった。ある日、これまで近所づきあいをしてきたフバーチェク一家やゼレンカ、ボジェナ、クロウパ一家が揃って彼の店を破壊し、商品を強奪していった。駆け付けた軍隊は暴徒に発砲し、クロウパ家の末っ子で10歳のフランチシェクが撃たれてようやく事態が収まる。タウスィヒ一家は、チェコ人になろうという努力の甲斐なく、ユダヤ人ということで、かつて交友関係を結んでいたチェコ人たちに裏切られたのである。

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