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【プラハのドイツ語B級文学 読書メモ②】カール・ハンス・シュトローブル『ヴァーツラフ亭』


 前回に引き続き、プラハのドイツ語作家カール・ハンス・シュトローブルの小説のあらすじを紹介する。「シュトローブルとは?」という方は以下の記事を参照されたい。

 今回扱うのは1902年、シュトローブル25歳の時に発表された小説だ。どうやらこの小説は、シュトローブルの学生時代の経験に基づく自伝的な作品らしい。わたしが目を通した文献は初版発行から14年後(1918年)再版されたものがさらに版を重ねたもの(1924年版)。人気の程がうかがえる。
 本書前書きでシュトローブルは、若書きの作品の未熟さに言及しつつも、ここで扱われている問題(チェコ民族とドイツ民族の対立)は依然ホットな問題であると指摘している。彼はこの作品を皮切りに、当時プラハにいたドイツ人学生が置かれていた状況について考えを深め、それをさらに二つの長編小説に落とし込んでいる。そのひとつは、以前紹介した『シプカ峠』、もうひとつは『プシェミスル亭』という作品である。
 『シプカ峠』と比較してみると明らかだが、『ヴァーツラフ亭』は、物語の展開や登場人物のキャラづくりは凝っているものの、小説としての完成度はやや落ちる。読者が盛り上がりを期待する部分で話の展開が滞ったり、作中の謎が完全に回収しきれていなかったりと消化不足の部分がちらほら見られる。また、これはのちに書かれる『シプカ峠』や『プシェミスル亭』でも変わらないが、基本的に登場人物の内面描写が浅いような印象を受ける。また、自身を取り囲む社会状況を俯瞰できず、ドイツ民族主義というイデオロギーに偏った視点からしか語ることができていないという点にも問題がある。

「じゃあ俺たちはプラハを諦めるべきなのか?」
「あぁ」
古きドイツの都市を? この街は我々から、後の帝国とその権力の基礎という最初にして最大の贈り物を受け取ったんじゃないか
「かつてはな。でも今は違う。俺たちは、そろそろ現実を覚悟することを学ばなければならない頃だ」
「臆病な戦いの課題だな……」

 マルジナリアのチェコ人読者もびっくりである。これに類似する発言は本文中に散見されるが、それを口にする登場人物たちは全く疑いなくそれを信じている。シュトローブルの作品は、当時のドイツ民族主義者の発想をリアルに反映した作品だ。

『ヴァーツラフ亭』あらすじ

 
 プラハのドイツ人学生団体「フランコニア」は、1897年の冬学期に、溜まり場としていたアパートから退去を求められる。近隣住民がドイツ人学生を住まわせることに反対したためである。新しい溜まり場探しは難航するが、アブラハムと呼ばれている先輩の伝手で、ユダヤ人街の片隅にある居酒屋ヴァーツラフ亭にある一室を紹介してもらう。その部屋は薄暗く非衛生的だったが、退去日が間近に迫っていたため「フランコニア」の学生たちはすぐにヴァーツラフ亭に越してくる。ホラクは、居酒屋ヴァーツラフ亭を経営するチェコ人ヴァーツラフの娘マリエに恋に落ちる。二人は、ある日居酒屋で開催されたパーティーで距離をぐっと縮めるのだが、それを見た別のドイツ人学生集団「テッサリア」に属するホルマイアーは「あの娘と付き合ったら病気になるぞ」と言ってホラクを侮辱し、二人は決闘を行うことになる。
 学生たちを追い出してヴァーツラフが店を施錠すると、店内から大きな物音が聞こえた。ヴァーツラフがランプを持って店に戻ってみると、下男として雇っている知的障碍者のフラントがテーブルから落下して死んでいた。
 翌日、ヴァーツラフ亭でホラクとホルマイアーの決闘が行われた。しかし、「フランコニア」の仲間たちはホラクの様子がおかしいことに気付く。どうやら随分体調が悪いようだ。しかしホラクはただの二日酔いだと言い張って決闘の会場に赴く。もともと「フランコニア」一の剣術の使い手である彼は、ホルマイアー相手に傷を負い続けるが、負けを認めることなく戦いに挑む。とうとう立ち上がれなくなったホラクは、馬車で病院に運ばれる。病院の待合室で、「フランコニア」のリーダー的存在であるビンダーとメデレ、そして手術の手伝いをした医学生の仲間ヴァイスは、ホラクがおそらく既にマリエの性病に感染しており、そのために体調を崩していたのではないかと話す。だからこそ彼が決闘で死ぬつもりでいたのではないかと。
 重傷を負ったホラクは回復したものの、病院に留まっている。ホラクの見舞いに来たビンダーは、最近帝国議会で起こった乱闘事件(注:1897年、ハプスブルク帝国では、帝国議会首相バデーニが、当時勢力を拡大しつつあった青年チェコ党を味方につけるため、ボヘミアの役所における二言語(ドイツ語・チェコ語)使用を定めるバデーニ勅令を発布した。しかしながらこの言語令は、チェコ語を話すことができないドイツ人が公職に就く上で非常に不利なものであったため、ボヘミア各地でドイツ人による激しい反対運動が行われた。ここで言及されている乱闘事件は、一連の騒動に関連して、チェコ系議員がドイツ系議員に対して暴力行為に及んだということを示している)について病室の学生たちに話し、これに関して数日後に大規模な学生集会があることを告げる。「ドイツ民族が抑圧されている!」と憤る学生たちに対し、ホラクは、「俺たちドイツ人は、プラハをいずれ諦めなければならなくなるだろう」と悲観的な見解を示す。
 ホラクの病室から出たビンダーは「フランコニア」の仲間たちに出会い、飲みに出かける。ユダヤ人街にあるある居酒屋で、彼らのテーブルに見知らぬ男がやって来て、16世紀後半のプラハの歴史、とりわけルドルフ2世に徴用されていた天文学者ティコ・ブラーエの話を語り始める。午前3時、閉店時間になり学生たちが変える支度をしている間に、見知らぬ男は姿をくらましていた。
 しかしその帰り道に、ビンダーは姿を消した見知らぬ男を見つけ、仲間から離れて彼に誘い出される。何とこの男はティコ・ブラーエ本人のようだ。
未明のプラハを歩き回った末に、ティコ・ブラーエはティーン教会前で「いかなる人もいかなる民族も、その内なる強さを通して自身の歴史を求めるのだ」と言い残し、ビンダーと別れる。目を覚ますと、ビンダーは自宅のベッドの上にいた。昨夜(というか今朝)の出来事が夢か現実かは定かではない。
 その翌日ビンダーがヴァーツラフ亭に来てみると、マリエが病気でウィーンの病院に送られたことが明らかになった。翌日開催予定の学生集会に話が及んだ時、仲間のひとりが、バデーニ首相が解任されたという知らせをもたらした。
 ドイツ民族への抑圧に反対を示すために行われるはずだった学生集会は、ドイツ民族の勝利を祝うデモとなった。学生たちは大学のホールから出て街を練り歩く。しかし、ドイツ会館に到着したフランコニアの仲間たちは、デモ行進から離れた学生たちが街のあちこちでチェコ民族主義者に襲われ、女子どもを含む多くのドイツ人が殺害されたと知る。フランコニアたちが街の中心へ繰り出すと、ヴァーツラフ広場は暴徒であふれかえっていた。フランコニアたちも乱闘に巻き込まれるが、なんとか抜け出して馬車で広場を離れる。
 その夜ビンダーは自宅で、収まることのない街の喧噪を聞きながら物思いにふける。彼の考えでは、チェコ人たちはドイツ民族の文化に対する嫉妬心からこのような暴力沙汰を起こしている。彼は嘆く。なぜチェコ人たちは、ドイツ民族が作り出したこの美しい街を破壊するのか、と。
 その翌々日、ビンダーがヴァーツラフ亭に行ってみると、ヴァーツラフが、前夜、ドイツ人学生を探す人々が店の周囲をうろついていたという。今やチェコ人たちは、ドイツ人がいる店や家を一軒一軒殴り込みに行っているのだ。
 翌日、フランコニアをはじめとするドイツ学生団体の仲間たちは、暴徒を迎え撃つためにヴァーツラフ亭に集まった。街での騒ぎを耳にしていてもたってもいられなくなったホラクも病院から抜け出してヴァーツラフ亭にやって来る。彼は以前の発言を撤回し、「プラハを諦めるわけにはいかない。戦いが起こったからには、皆が犠牲になる覚悟で戦わねばならない」と主張する。その日は夜中の1時になっても暴徒が現れなかったため、ヴァーツラフは店を閉め、学生たちはヴァーツラフ亭を後にする。
 帰り道にホラクはビンダーとシュティーグルに自分の考えが変わるきっかけとなった夢について話す。ビンダーが見舞いに来た日の夜、ホラクは金縛りにあい、遠くで誰かが話しているような声を耳にした。そしてその瞬間に彼の頭に「我らが民族は、自らが望むことを、しっかりと団結してつかみ取らねばならない。自分たちの歴史を力づくで手にしなければならないのだ」という考えが浮かんだのだという。
 と、ここで彼らはヴァーツラフ広場に差し掛かった。広場にはあちこちにチェコ人の暴徒がおり、三人も暴徒たちに捕まってしまう。しかし、暴徒のうちの一人が「彼らは教養ある人々なので大勢で襲い掛かるのは恥になる」と言って仲間を諭し、三人を見逃してくれる。ビンダーは彼にお礼を言ったとき、ふとその目つきが誰かに似ているように思う。そして晩になって、その目つきがティコ・ブラーエのものであったことに気付く。そう思った瞬間に、ビンダーの元に泊まっていたホラクは「我々は犠牲を捧げなければならない」と呟く。
 フランコニアの学生たちは、一人また一人とプラハを去る計画を立て始めた。ホラクは当初はプラハに残るつもりで、護身用の拳銃まで手に入れたのだが、彼も結局はプラハを去ることにする。学生たちはヴァーツラフ亭に置いていた荷物を処分して荷造りを始める。翌日故郷に去ることになっているホラクは、仲間たちとヴァーツラフ広場まで来ると、一度家に帰りたいと告げ仲間と別れる。ホラクの前から歩いてきたチェコ人の紳士が、彼に侮蔑的な視線を投げかけたのをきっかけに、彼はチェコ人たちに飛び掛かる。周囲の人に取り押さえられたところで、彼はポケットの拳銃を出してチェコ人の学生を撃つ。
 ホラクは逮捕されたが、数日後正当防衛ということで解放された。しかしここ数日のストレスゆえに思い病に罹った彼は、南方の療養地で肺炎で死んだ。
 ホラクの死を超えて、その後も強くなろうとする者の戦いが、民族と文化の恐ろしい戦いは続いてゆくのだった。


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