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驟雨前

 雨の匂いがする。
 アスファルトの上で行儀よく手を揃えた猫が、薄桃色の鼻の頭を空に向けて目を細めていた。わたしも同じように空を仰いで、目を細めてみる。雨の匂いと、生ぬるい風。角が取れてまるくなった風はどんなに吹いても痛くはなくて、けれどその柔い肌触りが無性に心を引き攣らせた。火傷の痕を指で撫でたときみたいに、痛そうなのに、痛くはないんだという発見はもう何度目かのものだと思う。
「楓?」
 バカみたいに目に飛び込んでくる鮮烈な赤を持って、頼りないあいつが立っている。だぼだぼのパーカーはくたびれていてお世辞にも格好良くは無いけれど、彼の薄いくせに広い肩だとか、そういうものにはちゃんと馴染んでいていいなと思った。鞣したやわらかな革のように、身に馴染むくたくたのものを好むあいつのことがわたしは好きだ。なんとなく鼠とかハムスターとか、そういう生き物を彷彿とさせる。
「なにしてるの」
 中途半端に笑って、中途半端な距離を保ったままで、彼が言う。頼りない声。風の音や雨の音に簡単に消えてしまいそうな、淡い音。楓、ともう一度彼が言った。それは確かめる意味合いなのか、何かを言いかけたのか、単に呟いてみたかっただけなのかどれなんだろう。どれでもないのかもしれないな、とも思う。
「雨、降らないよ」
「え?」
「今日は雨、降らない」
 わたしの声に少し戸惑うようにして、あいつは手に持った赤い傘を見る。そうかな、とか呟いたような気もしたけれど、風向きか何かのせいでよく聞こえなかった。
「……でも、天気予報は雨だって」
「うん。雨の匂いもするね」
 もともと目つきも悪ければ目も悪いから、わたしは多分半分くらい睨むみたいにしてあいつを見ている。例えば虐めてやろうと鼠を見ている猫みたいに。けれど目の前の鼠は一切こちらには怯まなくて、それどころかわずかに首を傾げてぱたりと睫毛を上下に揺らす。随分と呑気でのんびりとした、まるでこの世界とは違うペースで動いているような、そんな反応。なにいってるの。そんな声が聞こえてくる。
 アスファルトを踏んで均す車のタイヤの音がする。ライトの筋がもやもやと広がって、二人の影にもおかしな色をつけた。地面が揺れたからなのか飽きたからなのか、欠伸もせずに髭を揺らして、猫は気まぐれに去っていく。走らずに悠々と、しゃなりしゃなりと歩く芸妓さんみたいにゆっくりぼちぼちと歩く後ろ足には真っ白な斑模様があった。
「……楓?」
 彼がまた名前を呼ぶ。それにしたってどうして、そんなに真っ赤な色の傘にしたんだろうと思う。本当、この人はいよいよセンスがない。
「ねぇ、涼さん。わたしはお姉ちゃんじゃないよ。お姉ちゃんは、もう死んじゃったんだよ」
 彼は少し目を見張って、それからほんの少しだけ、顔を歪めて笑った。彼はあと何回繰り返して、何回忘れて、何回思い出して、何回傷つくつもりなんだろうと思う。
 赤い傘なんて、そんなの捨ててしまえばいいのに。
 あなたを置いていった人の名前なんて、もう忘れてしまえばいいのに。
「……わたしの名前は覚えてないくせに」
 猫は鼠を咬み殺すんだから。
 そんな風なことを言いながら、わたしは猫が鼠をつかまえるところも咬み殺すところも一度だって見たことがないし、今日は雨が降るということだって知っている。
 あの人のパーカーの手触りだとか、どんな風に笑う人だったのかとか、そんなことは何一つとして知らなくて。なんでいっつも灰色なの、とそんなことを口の中で転がした。
 噎せるように雨の匂いが強くなる。
 遠くで雷鳴がして、雨の訪れを二人に知らせた。赤い傘は、どうせ開かれることはない。

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特に意味はない雨の話。

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