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『すずめの戸締まり』感想おまけ

こんにちは、ことろです!

今回は、前回の『すずめの戸締まり』の感想のつづきというか、おまけのようなものです。

前回は鈴芽に焦点を当てて書いたので、今回はダイジンや草太など、書ききれなかった細々とした感想を語ってみたいと思います。

今回も、ネタバレを含みます。
読みたくない方はUターンでお願いします。


辺土(リンボ)とは?

草太が見る不思議な夢に、辺土と書いてリンボと読ませる場所が出てきます。

辺土(へんど)……都から遠く離れた土地。辺地。片土。
リンボ……キリシタン用語①洗礼を受けないで死んだ子ども、異教徒、キリスト教に接する機会のなかった人などの霊魂の行く所。地獄と天国との間にあるという。②世の始めからの善人たちの霊魂が住んでいた所。(精選版 日本国語大辞典より)

おそらく、この辺土とリンボの①の意味が合わさった感じでイメージしてるのかなと思います。

草太は夢の中で、三本脚の子供椅子に座っていて、そこからどこまでも落ちていきます。

途中、鈴芽の常世のような燃え盛る町並みを通り過ぎ(あそこにすら行けないのか、と作中で嘆いています)、さらに落ちていくと広大な海辺に到着します。

波打ち際に、古びた木のドアと椅子があり、海と砂浜の境目には波に打ち上げられた骨がどこまでも一列に並んでいます。

ドアの表面には、植物をあしらった木彫りの装飾が施されています。ペンキがぼろぼろに剥げており、とても懐かしい感じがするドアです。

おそらく、このドアが草太の後ろ戸なのかなと思います。

辺土(リンボ)はとても寒いのか、だんだんと凍りついて身動きが取れなくなってしまいます。

もし、この辺土(リンボ)や凍りつくような孤独が要石の内的世界なのだとしたら、おそらくダイジンやサダイジンもこれを経験しているはずで、それはどれほどのつらさなのかを想像させます。

ダイジンが、鈴芽の「うちの子になる?」という言葉に反応し、本気で猫として生きていきたかった気持ちがなんだかわかるような気がします。

ダイジンやサダイジンが元は人間だったのかはわかりませんが、長い年月をかけて神様になってしまったので、神は人間とは一緒に暮らせないと私は思うので、やっぱりもとの要石に戻ってもらう形になるのも、役割としては避けられないのだろうなと思います。


ひとのてで もとにもどして

サダイジンが言ったセリフです。
「ひとのてで もとにもどして」
なかなか意味深な言葉ですが、どういう意味なのでしょう?

もともと要石は人間が作ったものなのでしょうか?
ダイジンを抜いたのは鈴芽だから、元に戻すのも人間がしろ、という意味でしょうか?
私にはよくわかりません。

ですが、「人の心の重さがその土地を鎮めている」らしいので、要石を刺せるのも人間しかいないのかもしれないと思います。
物理的にも、精神的にも。ひとにしかできない。


ダイジンの気持ち

 すずめ、と掠れた声を出す。
「だいじんはね──すずめの子には なれなかった」
「え?」
 うちの子になる? 何気なく言った自分の言葉を、私はとっさに思い出す。うん、とあの時ダイジンは答えたのだ。一度開かれたダイジンの瞳が、また閉じていく。軽かった仔猫の体が、石のように重く、ますます冷たくなっていく。
「……ダイジン?」
「すずめのてで もとにもどして」
「──!」
 私の手の中にあるものは、石像だった。私が九州で抜いた時と同じ、短い杖のような形をした石の像だった。冷たい要石に、ダイジンは戻ってしまった。ふいに涙が溢れ、私は声を押し殺した。この旅の間中ずっと望んでいたことだったのに──私は泣いていた。

小説版『すずめの戸締まり』p.337


草太が要石になったのも、もとは鈴芽がダイジンを引っこ抜いてしまったからで、鈴芽は責任を感じていて、草太を助けるために旅を続けていたけれど。

要石がどんな役割で、どんなつらい境遇なのかもわかってしまった以上、誰かに対して「あなた要石になってよ」とは言えない。

それでも、ダイジンが自分から要石に戻ってくれることを期待していた。

ダイジンとは仲良くなかったけれど、誤解が解けたあとも心は複雑で。
願ってしまった自分がやるせない。

どう考えても適任はダイジンだけど、それはダイジンの人生を丸無視しての発想なんですよね。

結果、ダイジンはすずめの子になるのを諦めた。
すずめは草太がすきで、草太もすずめがすき。
そこにダイジンはいない。
だから、身を引いた。
ただの猫として生きる道もあったかもしれないけれど、それは叶わない願いだった。
だから、せめて、すずめのてで もとにもどして。
そう言ったのかなと思います。


人々はもう、ほとんど忘れかけている

鈴芽と草太が東京に着いて大きめの地震が起きたとき、二つ目の要石が抜けてしまって、ふたりは大急ぎでミミズを追いかけて飛び乗り、東京の空へと舞い上がっていきます。

それを東京の人々は見ていたはずなのに、事態が落ち着くと、少しずつ忘れていく。忘れてしまう。

 人々はうきうきと考えている。
 これから会う恋人との時間を。一人で楽しむ夕餉のことを。待ち合わせた友達との会話を。迎えに行った時の子供の笑顔を。
 人々はもう、ほとんど忘れかけている。
 すこし前に発生した短い地震のことも。
 少女が橋から飛び降りたように見えたことも。
 その少し後でなぜか空から落ちてきた、片方だけのローファーのことも。
 でも鳥たちと──私たちだけには、見えている。
 東京の空に広がった、巨大な赤い渦が。まるで空のてっぺんの栓が抜けて、赤い泥水が回転をしながら吸い込まれていくよう。その渦はいつまでも消えずに、むしろ広がりを増していく。首都にすっぽりと蓋をするかのように、その渦は空を大きく覆っている。

小説版『すずめの戸締まり』p.202

地震が起きても、それで何も被害がなければ徐々に忘れていくし、それは自然なことのようにも思えます。
しかし、ここで言っているのはそういうことではない気がして、しばらく考えました。

日本人は、ショッキングな出来事が起きてもすぐに忘れる、忘れやすい国民だと言われることがあります。
ある事件や災害がニュースで流れても、自分に直接関係ないことであれば、数日もすれば日常に戻ってしまう。忘れてしまう。
それが、だめなんじゃないかと言っているのかな?と思いました。

見えない巨大ミミズが東京の上空に渦を巻いているこの絶体絶命の状態を、しかし私たちは物語として忘れてしまいます。
『すずめの戸締まり』はあくまでフィクションだけれど、日本や東京が危ない状態なのは現実でも変わらないわけで、それを日常に戻った時に忘れないでほしいと言っているのかな、なんて少し深読みでしょうか?

人がいなくなってしまった場所には、後ろ戸が開くことがある。
人の心の重さが、その土地を鎮めている。
大都市にはたくさんの人がいるのに地震が起きるのは、私たちの心の重さが軽くなってしまったからなのかもしれないなと、なんとなく思いました。


君の中にある赤と青き線 それらが結ばれるのは心の臓

 彼と同じように、私も要石を振り上げる。ミミズの尾が私に迫ってくる。その体は、剥き出しになった無数の血管が絡み合っているように見えた。一本一本の管の中に、ちらちらと瞬きながら流れる赤い小川がある。私が振り上げた要石からも、まるで静脈のような青い光がたなびき始めた。赤と青の光の線が、まるで求め合うかのようにそれぞれに向かって伸びていく。それは美しい眺めだった。まるで花火の中を落ちていくようだった。

小説版『すずめの戸締まり』p.345

最後にミミズを血管にたとえたのは、なんでだろうと考えました。

主題歌の歌詞には「君の中にある 赤と青き線 それらが結ばれるのは 心の臓」というフレーズがあります。それはここから来ているのだろうと思いました。

それでは、ミミズと要石が出会ったら心臓になるのかなと思いましたが、ちょっと違う気がします(笑)

ですが、要石というのは人々の声そのものなのかなと思い至りました。
後ろ戸を閉じるときに草太さんが祝詞のような呪文を唱えると、かつてそこにあったであろう声が聞こえてきます。
それと同じで、ミミズを封印するのにも、人々の声が必要なのかな、と。
声というより想いでしょうか?
ふたつが合わさることで心になり、人の心の重さでミミズを封印しているのかなと、思いました。

ミミズが鍵穴で要石が鍵のように、お互い惹かれ合うものがあって、ああいう書き方をしたのかなと思いました。



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いくつかピックアップして書いてみましたが、いかがでしたでしょうか?

小説版『すずめの戸締まり』は隅から隅まで考えさせてくれるものが散りばめられています。

他にも、キスで起きる草太さんは白雪姫のようだとか、鈴芽と草太さんの戦友感とか、色々あったのですが割愛しました(笑)

また映画版を観れたらいいなと思います。

何か追加で書けることが増えましたら、そのときまた書きたいと思います。

それでは、また!
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


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