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「よう出来た話やなぁ」という話

こちらの投稿に続いて、お正月休みにぼんやり考えたことを書こうと思います。

「観てくれる人の心に響くストーリーを書く」なんてことをしようとする人は自ずと、気持ちの揺らぎというものに敏感になると思うんです。
人の気持ちは雑にしか感じ取らないし、自分の気持ちも常にどっしりと安定した「鋼のメンタルの持ち主」みたいな人が、物語を描くというイメージは、私には持てません。

私自身にも必要以上にエモーショナルなところがあり、それを面倒くさいなと思いつつ、
「そこそこ繊細じゃなかったら、脚本家なんかやってられんわ」
と開き直っているところもあります。

さて、それならば心が繊細であればあるほど脚本家に向いているのか?といえば、それは「違う」と言わざるを得ない。
仮に「繊細です! センシティブ代表です!!」みたいな人が脚本家になると、相当つらい思いもするだろうと思います。
つらくなりそうな場面を挙げるとすると、例えば打ち合わせの席。

「打ち合わせは祭り」というのが私の持論です。
出席者一人一人の「盛り上げていこうぜ!」という姿勢が重要。
ですので、口を開けば「できないこと」と「できない理由」しか言わない人に対しては内心、
「ええと、今日は一体何の目的でいらっしゃったんでしたっけ?」
とツッコみ続けています。(マナーとして、口に出しては言わない。)
つまり「前向きに」「楽しく」というのが打ち合わせの基本姿勢だと思っているわけです。

とはいうものの、打ち合わせには「闘い」という側面もあります。
立場の違う人たちが集まり、それぞれの立場から「こうあるべきだ」と主張をする。
各々の言い分は筋が通っていても、それらが矛盾することは珍しくありません。
脚本家が「これが最適解だ!」と信じるシーンを書いても、「予算がまったく足りません」と言われれば、次なる最適解を探すしかない。
いや、直しを求められる理由が「予算」ぐらい分かりやすいことならいいのですが、時には「簡単には承服しかねます」という理由を提示される場合もあります。
そうなると、
「本当に直さないといけないんですか? その理由で? それは作品にとって本当にプラスなんですか?」
と主張しなくてはなりません。
相反する意見がぶつかるわけですから、お互いにとって「絶対に負けられない闘い」が繰り広げられることもあります。

こういう局面は、「とにかく揉めるのは嫌い」「穏便第一」という人はつらいですよね。
話し合えば常に自分の主張が通るとも限りませんし、そこにもまたストレスは発生します。
これらを一つ一つ繊細に受け止め過ぎると、仕事を続けていけなくなる、なんてこともあり得るでしょう。
その意味では、
「そこそこ図々しくないと、脚本家なんかやってられんわ」
と思います。
これが上述の、
「そこそこ繊細じゃないと、脚本家なんかやってられんわ」
と矛盾してしまうわけです。
そんなわけで、脚本家というのは自分の中に「二律背反」を求められる仕事だと度々感じます。

さて、私の脚本の師匠によると「ドラマ」という言葉の語源は、ギリシア語の「二律背反」を意味する言葉だとか。
ドラマを作る人間は、自分の体内にドラマを抱え続けなくてはならない。
「よう出来た話やなぁ」と思います。

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