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言葉を見直す、4日目。

日本人の集団行動では
公の場所ほど、

ファミリーネーム+「さん」という呼び方になる。


店舗での接客業だと
スタッフ同士がフランクに

ニックネームや、
ファーストネームを使うけど。


親しい友人を除けば、
人生のほとんどを


実家の家族以外は
苗字(姓)で、呼ばれてきた。


自己紹介するときにも
初対面だし、姓を名乗る。


自己嫌悪や
自己否定が過去にあったりすると


自らの名前が好きじゃないと
いう人もいて、


(もれなく、私自身もそうなんだけど。)


姓名、どっちも好きじゃなくて
ペンネームを持つようになった。


今となっては
これが一番、しっくりくる。


就学前には、
家族か幼馴染しか

私を呼ぶことはなくて。


確か小学校に入学したとき
「個人用引き出し」に、


母が漢字で
私の名前を書いたのを見て


こういう漢字を書くのか、
そう思う一方で


『変な名前』だと、思っていた。


実際に、
自己紹介でも、発音しにくい。


そして、ふと思う。


『私は、私でしかない。』


個体としては、
集団行動のために名前で区別するけど


一人でいるときは
「私」でしかない。


漢字を ”変更させられた説” を聞いて
「和多志」と書く人たちのことを


最近になって、
ようやく理解できたものだけど。


個人的な発想では
「わたし」は「渡し」かと


数年前には、定義つけていた。


「わたくし」は「和託し」かな、と。


禾は、稲のような、ゆらゆらした草の様子。
ムは、宇宙の広がり。


広大な草原に
風が吹き抜けるようなイメージと


柔軟性ありそうな「私」。


何事も、問題化して
悩む思考の習慣があったから


軽めのイメージも、
それなりに、ありがたいとも思った。


この身には寿命があるけど
この世は、渡していけるもの。



それでも、
一番、気楽でいられるのは


言葉の表現がない
動植物や幼児との関わりで


シンプルな
「好き」「嫌い」の関係。


コミュニケーションは
大体「愛」のエネルギーで


「ただ、それだけ」なのが
 考えることなく、


リラックスできるんだろうな、と思う。



今となっては、
氏名についても「使命」であるかのように


深読みまで、してしまうけど。


畑へ入って
「名前」がいらない状態の方が


なんだか周囲と
一体化できる気がしている。


『私は、地球そのものだった。』


なんだかんだと、
ややこしくなった


人間社会は接点だけを
維持することにして



どっぷり浸かるのは
自然界の豊かさの中にしよう。


人間界のことは
嫌というほどに、思考に繰り返してきた。



だから後半人生は
なるべく知らない植物のことを


ちゃんと知って 
”生きたい” とも思う♫



ありがたいことに
ここからは、豊かな秋の実りが続く❤️


受け取った喜びを
言葉にできるのも、いいけど。


自然界へ伝えるなら
言葉じゃなく「喜びのエネルギー」が有効。


口先だけじゃない
身体全体で、喜ぶとすれば


それは一体
どんなパフォーマンスになるんだろう?と、


この秋は、これを
一つのテーマにして


表現力を、磨いていきたい♫


『全身で、大喜びする』


最後にそれをしたのは
いつの話だったっけ?


まずはその感動を、
思い出すことから、始めていこう。



























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