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日本語を研究する (1): 言葉の研究とはどのようなものか

執筆動機

僕は大学に勤めつつ、日本語を研究しています。特に、(i) 日本語(を話す人々)の歴史 (以下「日本語史」) と、(ii) 日本各地の高齢者が話す方言 (以下「伝統方言」) の音声・文法とに興味が有ります。基本的に飽き性なのですが、どういうわけか、言葉の研究だけは長く続けられていますね。

ですが、言葉の研究、専門的に言えば、言語学がどのようなものであるかは、世間の人々にほとんど知られていないようです。僕の研究対象は母語の日本語ですから、「わざわざ研究することなんてあるの?」と聞かれることも少なくありません。言語学を外国語学習の一種と誤解している人も相当数います。

そこで、自分の研究を題材にして、言語学の実態を紹介する記事を書いていきます。1記事の分量は2000字以内を目安に。トルコ語(の家族)を研究している吉村大樹さんとは違って、筆マメではないので、更新頻度は週1程度でしょうか。途中で飽きるという事態も充分にありえます。

言語学の紹介文であることから、できる限り平易に書くよう努めます。願はくはこのやうに、舊漢字・舊かな遣ひで進めたいのですが、これでは、讀み手が殆んどゐなくなってしまふでせう。殘念ではありますが、世閒の空氣を讀んで、現在普通に行なはれてゐる表記法を泣く〳〵採用します。

日本語史の研究

前述のとおり、僕の関心事のひとつは日本語史です。この研究にあたっては、まず、『万葉集』や『源氏物語』といった古典に残る日本語に注目します。具体的には、各作品を読み解きながら、どのような語句がどのような意味で用いられているかを学んでいくのです。

そうしているうちに自然と、推し語句が定まってきます。(自然と定まらない場合は、現代日本語にも生きている語句の使い方に注目しましょう。) たとえば、'無生物が存在する' を表す「ある」という語が古典にもよく出て来ることに気づき、そのことが頭から離れなくなったり。幸い、語句には課金しなくてもよいので、安心して推しましょう。

言語研究のためのデイタ

こうしてめでたく、「ある」の研究が始まりました。まずは、MS Excelやエディターを使って、次掲図1のような言語研究用デイタを作っていきます。

図1: 言語研究用デイタ

デイタを作っているうちに、次掲 (A) のようなことに気づくでしょう。これがただの印象ではないことをデイタで示すことができれば、言語研究の出来上がりです。

(A)

  1. 「ある」は約1300年前から使われている。

  2. その頃の「ある」は '生物が存在する' を表すこともできる[*]。

[*] 「あの人は今ハワイにある」「水槽の中に金魚がある」って、現代共通日本語としては奇妙ですよね。和歌山県下の方言には、このように表現するものがありまして、古代日本語との繋がりに感動します。

せっかくの機会ですので、(A) に関する研究を紹介しておきます。著者が偏っている点に他意はありません。

1. 金水 敏 (1982)「人を主語とする存在表現: 天草版平家物語を中心に」『國語と國文學』59-12、pp. 58–73、東京大学国語国文学会

2. 金水 敏 (1983)「上代・中古のヰルとヲリ: 状態化形式の推移」『國語學』134、pp. 1–16、国語学会

3. 金水 敏 (1984)「「いる」「おる」「ある」: 存在表現の歴史と方言」『ユリイカ』16–12、pp. 284–93、青土社

4. 金水 敏 (2006)『日本語存在表現の歴史』ひつじ書房 (上記1–3などをまとめ直したもの)

日本語史と方言との関係

以上は日本語史研究の一例です。デイタの中心は古典日本語ですが、僕はさらに、各地の伝統方言にも注目しています。最近は、伝統方言そのものに対する関心の方が強いです (これについては後日述べます)。

日本語史の研究にあたって、伝統方言にも目を向けるのはなぜでしょうか。それは、(千)数百年前に使われていた語句が伝統方言にしばしば残っているからです。古典日本語と伝統方言とを見比べていると、次掲 (B1–2) のようなことに気づきます。この知識から (B3) のような推測を立てて、(B4–5) のような日本語史的仮説を思い描くのです。

(B)

  1. 10世紀 (1000年ほど昔) の京都に暮らす貴族は 'ヤバい' を「いみじ」と言っていた。

  2. 鹿児島県北西部の伝統方言では 'ひと筋縄では行かない' を「いみしか」と言う。

  3. 「いみじ」と「いみしか」とは発音も意味も似ているので、同根 (= 出どころが同じ) かもしれない。

  4. この2語がもし同根であれば、鹿児島県北西部に暮らす人々の先祖は、10世紀頃は京都にいた可能性がある。

  5. あるいは、10世紀京都の「いみじ」が流行りに乗るなどして、鹿児島県中西部に飛び火したのか。

(B4–5) のような仮説をたくさん立てて、その中から、もっともらしいものを選んでいきます。これも日本語史の研究です。地層や年輪を見て、環境の移り変わりを読み解く仕事に似ていますね。

つゞく

しご]た ちん]ちん そつぁ たん]たん。もろ]た ぜんな] そつい] かえ]て [に]かと かっ とっの] がそりん]に しもん]で '仕事はテキトー、酒はグビ〴〵。貰った錢は酒に替へて、新しいのを書く時のガソリンにします' 薩摩辯 [/]: 音高の上がり/下がり