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「毎日何してるの?」という問いが愚問だと感じる私はおそらく駐妻を拗らせている

久しぶりの更新。
書くのを忘れていた訳じゃない。
異国での生活、ネタは毎日溢れるほどある

でも、なぜだろう。日本の友人と話をしているとき、「毎日何しているの?」と聞かれて怯んでしまった。

朝起きる。弁当を作る。息子を送り出す。娘の支度をして送り出す。洗濯機を回す。昨晩干した分を畳む。食器を洗う。

列挙すればきりがない家事。その後、タイ語教室に通ったり、買い物に行ったり、病院行ったり、ご飯を食べに行ったり、何かしら予定がある日もあるけれど。

「毎日何しているの?」とキラキラした目で聞かれても、それに対して堂々と答えられるような回答は存在しない。

働いていた頃は、相手にもよるけれど、今何しているの?と聞かれたらとりあえず仕事のことを話していた気がする。それから、子供の成長の話。時間とタスクに追われる日々。常に現在進行形の何かがあった。内容はともかく物理的には充実していたのだろう。

かたや現在。締切や数字に追われることもない。評価されることもすることもない。メイン業務は育児家事。

ムエタイ通ってるとか、毎日タイ料理食べまくってるとか、キラキラ回答を期待されている訳じゃないことも、理解している。

でも何しているの?と聞かれると、自分は何もしてないんじゃないかと切なくなってしまう。

でも、何もしてないなんて、ありえない。
なんなら、生きるだけで精一杯なのだ。

どこかへ出かけるにも、一苦労。
(ドライバーに行き先を伝えるため翻訳機とGoogle MAPフル稼働で説明するもそもそも方向音痴なためうまくいかない)

買い物するにも、一苦労。
(屋台のピンク色の麺が気になっておばちゃんに頑張ってタイ語で「これ何?」って聞いたら「麺だよ」って返されたときの虚無感)

学校生活だって、いろいろある。
(子供が学校に水筒や弁当箱を忘れたとき日本ならひょいと取りに行けるが交通手段に制限がありそれができない)

家にいたって、いろいろ起こる。
(雷で停電する、大雨で雨漏りする、洗濯機にヤモリが入っちゃう…)

列挙すればきりがない珍事。冒頭にも書いたとおり、ネタは毎日溢れるほどある。でもそれらは、決して私の主体的行動で得られた体験ではなく、偶発的に起こる出来事。ゆえに「何してるの?」という問いの回答にはならない。

だから、それらの偶発的出来事への対応もひっくるめて、取り纏めて、

毎日必死に生きてます。
最近、そう答えている。

質問した側もきっと、キラキラ回答よりこっちの方が面白いだろうと勝手に思っている。

そして、人生経験を積んできた私は(その過程で薄らキャリア理論を齧ったことも功を奏し)主体的行動だけじゃなく、偶発的な出来事によって得られた経験もまた、私の血となり肉となり、いつか何かの役立つときが来ることを直感的に理解している

だからこれからも、毎日必死に生きようと思う。

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