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たい焼きが本当に生まれた年は?「二〇〇九年はたい焼き生誕百周年」説を徹底検証する【事物起源探究創刊号】

※松永英明個人誌『事物起源探究 創刊号』(2010年5月)より。

 二〇〇九年は「たい焼き生誕百周年」と報道されていた。しかし、調べてみたところ、一〇〇年以上前に鯛焼の店が存在した可能性が浮上してきた。
 「生誕百周年」の根拠は、東京・麻布十番のたい焼き老舗「浪花家総本店」が創業百周年を迎えること。そのため「タイヤキ百周年」と報じられているのだが、どうやらことはそう単純にはいかない。浪花家総本店の創業に当たる明治四十一年(一九〇九年)よりも以前、明治三十九年にたい焼き店が存在した可能性を示唆する当時の新聞記事を発見した。
 たい焼きの発祥はいつ、どこなのか。現時点では結論は出ていないが、小なくとも「二〇〇九年はたい焼き百周年」説には明確な根拠がなく、さらに起源がさかのぼる評判が高い。

◎たい焼き百周年報道

「たい焼き百周年」については、以下のような報道があって、一年を通じて盛り上がった。

・たい焼き、泳ぎ続けて100年 白皮、冷やし、長方形…「新種」も続々と(産経新聞二○○九年一月十四日)
・生誕一〇〇年で盛り上がる「たい焼き」の世界(東京ウォーカー二〇〇九年二月二十日)
・たい焼き生誕百周年、広島に「たい焼きブーム」上陸(広島経済新聞二〇〇九年五月二十九日)

いずれの記事も、麻布の浪花家総本店の初代神戸清次郎がたい焼きを生みだしたこと、そしてその創業が明治四十二年(一九〇九年)であるから、今年が「たい焼き百周年」にあたる、と報道している。
 いくつかのウェブページでも、浪花家説が支持されている(ちなみに表記は「浪花屋」とされることもあるが「浪花家」が正しい)。

・二重焼き、大判焼きに関連した歴史年表(http://hb2.seikyou.ne.jp/home/my-morita/ni/how_to/ni_chronology2.htm)
・まぼろしチャンネル第6回「回転焼と大判焼と今川焼の間には」の巻(http://www.maboroshi-ch.com/sun/pha_14.htm)

明治42年に港区麻布十番の浪花屋総本店が創出した。浪花屋という屋号からわかるとおり、創業者の神戸清次郎は大阪出身で、銀行家の息子。東京で今川焼きを売りはじめたが、それでは芸がない。そこで人形焼のような工夫をして、亀の形をした今川焼き「亀の子焼き」を作りだした。ところがこれがまったく売れなかったため、当時は高価で庶民の口にはなかなか入らなかった鯛をかたどることにしてタイヤキを創案したという。

また、浪花家総本店が「およげ!たいやきくん」のモデルになったという説も根強く、ブログなどでも自明の説として採用されている。

◎定説への疑問

しかし、これについて異説も存在する。ネットで見つかる最大の異論は、以下のページだろう。

・Webm旅2007年11月号たいやき研究ノート(http://www.webmtabi.jp/200711/feature_8_0.html)
・Webm旅2008年3月号たいやき研究ノート2 (http://www.webmtabi.jp/200803/serial/taiyaki02.html)

一般的に、鯛焼きの発明者(考案者)は、浪花家初代と言われる神戸清次郎(かんべせいじろう)氏と信じられている。本当に、明治四十二(1909)年に、鯛焼きは、神戸清次郎氏によって考案され、二〇〇九年でたいやきは誕生百周年を迎えるのだろうか?

 この記事の著者の方は、私と似てとにかく一次資料に当たって検証せずにはいられない性格の人のようで、加藤秀俊『食生活世相史』一九七七年、熊谷真菜『たこやき』一九九八年、宮嶋康彦『たい焼の魚拓』二○○二年の三冊を調べている。これらはいずれも神戸清次郎明治-四十四年説ではあるのだが、創業の場所、販売方法、売れ行き、鯛焼き以前の形について、記述が異なっていることが指摘されている。
 また、「およげ!たいやきくん」の歌のモデルは浪花家総本店の神戸精一であると自身が取材に答えて語っていることについて、実際には作詞家・高田ひろお氏が練馬駅近くで購入したたい焼きの思い出が元になっていことを解明している。練馬に浪花家はない。
 その後、続編がないのが残念だが、浪花家総本店にのみ取材したのではたい焼きの起源について確証が得られない、ということが明らかにされているといえる。少なくとも、「およげ!たいやきくん」が浪花家と関係ないことははっきりした。

◎三重県津市大門の「日の出屋食堂」製

ウィキペディアの「たい焼き」では、現時点(二〇一〇年五月の版)において、浪花家説が否定されている。

発祥
この記事の内容の信頼性について検証が求められています。確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。必要な議論をノートで行ってください。
発祥については、説が複数あり定かではない。明治時代に鋳物の型を使って作られたとされるが、三重県津市大門「日の出屋食堂」が東京や大阪のデパートに出店し全国的に広まったとも、「浪速家」の発明ともされるが、決定的な発祥の証拠は無い。今川焼きを元に種々の動物などを模した形に焼いた菓子が生まれ、その中で縁起が良く庶民がなかなか食べられない鯛の形をしたものが特に優勢になって生き残り、以後、長く愛されるようになったものと思われている。

 この項目の「ノート」では記事についての議論が行なわれているが、「一般には「日の出屋」ではないでしょうか」という疑問が提示されている。
 このあたりの事情について人力検索はてなで聞いてみたところ、nozomi_privateさんなどの報告により、以下のようなことが判明した。

・津市観光協会のページ「たいやき」には、「今では庶民の味となっているたいやきですが津が発祥の地です。最初は大門の日の出屋食堂で出され、当時は東京や大阪のデパートにも出店していました。現在は鳥居町のびすとろびあっとで注文販売によってなつかしい元和の味を味わうことができます。」と書かれているが、年代は明記されていない。
・この「日の出屋食堂」のオーナーのお嬢さんがビスト口びあっとという店で復刻版を出している。この包み紙に書かれた由来は、以下のとおり(文字すべて原文ママ)

鯛焼の由来
「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ……」の伊勢の津は、慶長年間、藩主藤堂高虎によって拓かれた城下町で、今の三重県津市である。
 高虎は、戦略に秀れ、戦国時代抜群の築城家と云われた名将で、関ヶ原の合戦の後、徳川家康が、大阪方へ備えのため、その掾点として、伊勢の国に高虎を封じたのである。
 高虎は、また藩領、伊勢の風物を愛し、伊勢海の幸、えび、鯛なども賞味したが、ことに鯛を好み、家臣の褒賞の折には、必らず鯛一尾を添えたと云われる。
 「鯛焼」の元祖、初代“日の出屋"は高虎の歿後、公の遺徳をしのび、この事蹟に倣い、鯛形の焼菓子を考案して発売したのである。これが現在、行われている「鯛焼」のはじめとなった。
 爾来、“日の出屋"は鯛焼を家業として、数百年、その間、時代とともに、材料と風味の上に工夫を重ね、元祖の名に恥じぬ「鯛焼」の調製に努めて今に至ったのであります。

 藤堂高虎は寛永七年(一六三〇年)没。「数百年」とは一気に歴史をさかのぼる可能性があるが、残念ながらこの解説では年代が明記されていない。そして、初代「日の出屋」がいつなのかもわからない。しかし、「元祖とか発祥といわれるお店リスト」ページ(http://www3.ocn.ne.jp/~gourmet/ganso.htm)を調べてみると、以下のように書かれている。

日の出屋(廃業)
三重
たいやき

 終戦後間もない頃、鋳物工場で型を作らせ、配給品の「キューバ糖」を使って旗揚げしたのが、津市「日の出屋」のたいやきだという。昭和24年、まだ月給が百円という時代に1斤五百円の砂糖を使ったたいきは、なんと1個百円もしたそうだ。甘みに飢えていた時代はいえ、それが飛ぶように売れたというので驚きである。
 このお店のたいやきは評判を重ね、全国の百貨店、デパートから特設の出店として招待されて日本中に広まり、ついには日本橋などの三越デパートで「本場・津のたいやき」と広告されてただのお付きを得た、ということ。残念ながら10年ほど前に廃業したという。

 これによると、日の出屋のたい焼きは戦後の発ということになる。
 また、東海テレビの企画書「ナゴヤ初めて物語(5)~たい焼きのルーツは津にあった」では以下のように記されている。

・このたい焼きを日本で初めて作ったという人が、伊藤正見さん。
・「インタビュー:伊藤さんにとって、たい焼きとはどんな存在か」
・たい焼きを作るに至った経緯、なぜ鯛の形にしたのか(インタビュー含む)
・たい焼きがどう広まっていったのか。「その時の感想は?」
・伊藤さんに転機が訪れる。娘夫婦に店を任せ引退。
・しかし、昭和62年、夫婦はロシア料理店を始め、たい焼きの店「日の出屋」の看板は32年で降ろされる。「当時の感想」「娘夫婦の考え」
・だが、ファンの根強い要望に応え、娘夫婦は元祖たい焼きを復活させる事に。
・復活はすんなりとはいかず、夫婦は悪戦苦闘。機械で作ろうとしたが、昔の味を出せず、結局手作りに。
・元祖たい焼きは10数年ぶりに復活。「伊藤さん、ファン、娘夫婦の感想」

ここからわかることは以下のとおり。

・伊藤正見さんが「たい焼きを日本で初めて作った」と言っている。
・津市の「日の出屋」は伊藤正見さん一代。
・昭和六十二年まで三十二年間。つまり、昭和三十年創業。

 明治末・大正にすでにたい焼きがあらわれていることから考えて、日の出屋発祥説は取り下げざるを得ない。

◎明治三十六年(一九〇六年)に開業した鯛焼屋があった

 手元の速水建夫『事物起源考』(一九六三年)にも、紀田純一郎『近代事物起源事典』(一九九二年)にも「たいやき」の項はない。
 そこで、国会図書館で調べてみることにした。明治・大正の新聞記事なら、読売新聞のデータベースが存在している。そこで「たい焼」「タイ焼」「鯛焼」「タイヤキ」「たいやき」等を含む記事を片っ端から検索してみた。しかし、鯛焼の発祥に関する記事は存在しなかった。
 このデータベースで最も古い「鯛焼」という言葉が含まれる記事は、明治四十四年(一九一一年)九月二十日(水曜日)の讀賣新聞三面である。この記事は、なんと「鯛焼で食中毒?」という不穏な内容である。以下、全文を転載する(ルビは省略、漢字は新字体)。

●鯛焼の中毒五人一
 △駄菓子に命を奪られんとす

嘗ては粟餅に命を取られた人があつたが今又菓子の鯛焼に中てられて命からがらの目に遭った五名の者がある
▲中毒の症状 牛込区富久町一六砲兵工廠職工栗林精一(三一)は去十七日の日曜を幸ひ平素好める鯛焼を食べんと女房キサ(二一)に命じて同区谷町百二六駄菓子商山口友吉(三八)方より鯛焼拾個拾銭にて買来させ自ら先二つを頬張り尚ほキサは一つを同居人小川ギン(二五)にも一つを与へし上精一の父にて同所七二新宿署書記長野善蔵へも三個を贈りたるに善蔵は一つ同居人早稲田中学三年生志川俊彦(十五)が二つを食べしまではよかりしも同日午後七時半頃に至り前記精一を始め五人の者何れも苦悶し始め精一は手足がすくみ眼が眩り且つ激烈なる下痢及嘔吐をさへ催して口も利けず妻キサ同居人ギンも下痢を催せしが一方父善蔵も中学生俊彦も同様の苦しみを為したるよりキサは夜が明けるを待ちて食残りの三個を携へて此旨を市ヶ谷署に届出た
▲警視庁にて分析 同署よりは今井巡査紀野医師出張して中毒患者に応急手当を加へ一同辛じて命を拾ったが腹痛は十九日に到るも止まらず殊に年少者俊彦の如きは一時は腰が抜けて一生鯛焼は愚か菓子と名の附く者は一生食はぬと零して居た、同署にては右鯛焼三個を警視庁衛生検査所に送り同署にては直ちに分析に取りかかつたから間もなく其原因が化学的に明日になるであらう
▲鯛焼屋の弁明 鯛焼商山口友吉方に就て取調べると友吉は今日まで五年間も鯛焼を営み日に四五円の高ありて妻タケ(二九)との間に米吉(四つ)立一(一つ)の二児を儲け相当に暮らして居るが当日は例に依りて根津製餡所から運搬して来た餡一円ハー銭を入れうどん粉をこねて鯛型の中に流し込み餡を包みて四百二十個を作り午後八時迄に全部売り尽した同人は曰く「この餡及びうどん粉の中に有害物があつたらうとは思はれぬ附近の畳屋広田吉蔵方始め方々にて買ひたるも何の事もなかつたので分る若し有害物があったとすれば夫は包の新聞紙にでも附て居たか又は栗林さん方の器具に在つたのではありますまいか」云々又栗林方に就て取調べると同家にては其日の夕食には朝焚きの飯に塩焼のさばと沢庵を菜にして食べ父善蔵方へもさばの一片を送り前記五人共さばを食つたとの事なれば或は鯛焼の中毒でなくてさばの毒であるやも知れぬとのことである。

登場人物をまとめると以下のとおりである。

・牛込区富久町在住・栗林精一・キサ夫婦、同居の小川ギン
・近くに住む精一の父・長野善三、同居の志川俊彦(谷町か富久町かはっきりしない)
・牛込区谷町の鯛焼屋:山口友吉・タケ・米吉・立一の一家

 で、結論としてはどうやら鯛焼中毒ではなくサバ中毒ではないかと。見出しで煽っておいて、タイしたことのない結末に落ち着いている。
 ちなみに牛込区富久町は今の新宿区富久町(曙橋駅の少し西)、谷町は市行谷町すなわち今の新宿区市谷台町と住吉町の範囲(曙橋駅すぐ北側)の一帯で、すぐご近所だ。
 さて、この記事によると、山口友吉は「今日まで五年間も鯛焼を営み、日に四五円の売高あり」と書かれている。警察沙汰における発言であるからこれにウソがないと仮定すれば、明治四十四年の五年前、明治三十九年(一九〇六年)から鯛焼屋をやっているということになる。この山口友吉の鯛焼屋はすでにないと思われるが、少なくとも浪花家総本家が創業した明治四十二年よりもさらにさかのぼること三年前にすでに牛込区内に鯛焼屋があり、明治四十四年にはすでに鯛焼という言葉には注釈が特につけられていなかったことが事実として読み取れるのである。
 となると、少なくとも山口友吉が鯛焼屋を開業したのが一九〇六年。山口友吉が鯛焼を創案したとは書かれていないので、鯛焼そのものの誕生はこれよりもさかのぼる可能性が大きい。となると、「二○○九年はたい焼き百周年」というのはどうも誤りではないかと結論づけねばなるまい。
 ちなみに、この記事では、根津製餡所から仕入れた餡を入れ、うどん粉(要するに小麦粉)をこねて、型に入れてたい焼きを焼いていることがわかる。また、十個十銭だから一個一銭、中毒事件の日には四百二十個を作ったから、完売したとして四円二十銭の売り上げ。仕入れは餡が一円五十銭。「駄菓子」と言われているように安いものだったようだが、一日四百個を売り上げるとしたら結構な人気である。
 ところで、根津製餡所で検索すると、東京の三大た焼き屋の一つに数えられる人形町柳屋の名前が見つかる。食ベログでの「たいやき札幌柳屋」(たい焼き・大判焼き/太平)に関する[夢見るオヤジじゃいられない」さんによるレビュー(http://u.tabelog.com/pii/r/rowdtl/319704)によれば、以下のとおり。

人形町柳屋。大正5年開業。
初代は、餡子の製造元である「根津製餡所」に就社し、餡子作りの基礎を学ぶ。同店のモットー「たい焼きは餡が命、皮は脇役」はこんな処に理由がある。
餡子の美味さを追求した結果、今の薄皮たい焼きに行き着いた由。同店が薄皮焼きを始める迄、吾国では饅頭のような比がたい焼きの主流だったそうである。
薄皮たい焼きの元祖が柳屋なのであるが、其の辺はたいフリークには良く知られた話。
パリパリ感が命のこの皮は上州砥部温泉にある鉱泉煎餅をヒントにしたとのこと。

 とすれば、この新聞記事にある山口友吉は、大正五年開業の人形町柳屋に先立つこと十年前に、同じ「根津製餡所」の名を使った鯛焼を売っていたということになる。どうやら、明治末にはすでに鯛焼は駄菓子として定着していたのではないかと思われる。また、東京の今川焼き系駄菓子のアンコは「根津製餡所」がキーワードになりそうに思われる。
 そういうわけで、現存する鯛焼屋の中で浪花家総本川が古くから続いていることは間違いないと思われるのだが、その創業をもって鯛焼のはじまりとするのは難しいようだ。鯛焼は百周年ではない。もっと古いのである。

◎東京のたいやき御三家

話のついでなので、現在「東京のたいやき御三家」と並び称される有名な鯛焼屋について触れておこう。それは以下の三店である。

・麻布十番「浪花屋総本店」明治四十二年(一九〇九年)創業
・人形町「柳屋」大正五年(一九一六年)創業
・四谷「わかば」昭和二十八年(一九五三年)創業

 「わかば」は新しいのだが、昭和二十八年三月十九日付の讀賣新聞で、安藤鶴夫(演劇評論家、直木賞作家)がこの「わかば」のたいやきを絶賛したことから一躍全国的に有名になった。「わかば」の鯛焼には、尻尾まで餡が入っていた。それを安藤鶴夫が絶賛したのである。一方、それに対して浪花家派の映画監将・山本嘉次郎が反論。「鯛焼のあんこは、尻尾まで入れるべきか否か」という、実にくだらなすぎて楽しい論争が展開されたのであった。新聞データベースによると、安藤鶴夫原作の鯛焼ドラマが放映されたことがあったようである。
 そして、昭和50年(1975年)、「およげ!たいやきくん」が大ヒットするのだった。
 ちなみに、私のお気に入りのたい焼きは、下高井戸「たつみや」のたい焼きである。

今回の記事と表紙のために下高井戸「たつみや」で実際に買ってきたたい焼き。
尾の先まであんこのあるタイプ。

◎文学者の記述にあらわれたたい焼き

 泉鏡花の明治四十四年二月の作品『露肆(ほしみせ)』に、以下のように書かれている。これは山の手大通りの露店について書いたもの。当時、泉鏡花は麹町区下六番町」(今の千代田区六番町、四ツ谷駅東側)に住んでいた。

この次第で、露店の間は、どうして八尺が五尺も無い。蒟蒻、蒲鉾、八ツ頭、おでん屋の鍋の中、混雑と込合って、食物店は、お馴染のぶっ切飴、今川焼、江戸前取り立ての魚焼、と名告を上げると、目の下八寸の鯛焼と銘を打つ。真似はせずとも可い事を、鱗焼は気味が悪い。

 長行川時雨による評伝『松井須磨子』では、松井須磨子が文芸協会を卒業業間近のころに鯛焼を食べていたという記述がある。

卒業間近くなって朝から夜まで通して練習のあったおりなど、みんながそれぞれのお弁当をとるのに、袂のなかから煙の出る鯛焼を出してさっさと食べてしまうと、勝手にさきへ一人で稽古をはじめたということなど、そうもあったろうとほほえまれる逸話をいろいろと聞いている。

 松井須磨子は明治四十二年に坪内逍遥・島村抱月の「文芸協会」の第一期生となり、明治四十四年に卒業、帝国劇場で上演されたシェイクスピア「ハムレット」のオフィリヤが初舞台であった。とすれば、卒業間近というこのエピソードはおそらく明治四十四年ごろのこと。これも、泉鏡花の作品や先ほどの食中毒事件と同じ年でいる。
 文芸協会は牛込区大久保余丁町(今の新宿区余丁町七一一)にあった。須磨子が「煙の出る鯛焼」を食べていたということは、麻布で買ってきたのではないと思われる。浪花家総本店創業からまもなくの時期にはすでに鯛焼が定着していたことは間違いない。しかし、それが麻布の「浪花家総本店」に限定されるとはいえないのだ。
 ところで、こうして古いたい焼きの話が明治四十四年の旧牛込区周辺に集まっているのがまた興味深い。食中毒事件の鯛焼が市谷谷町、松井須磨子が余丁町、鏡花が住んでいたのもさほど遠くない。偶然ではあろうが、明店主の生以あたりにはたい焼きは広まっていた。

◎業界では目をつぶる?

 なお、この調査をブログで発表したところ、このようなコメントが寄せられた。

タイヤキ発祥の通説、嘘って言えば嘘なんだけどねぇ。でも、業界ではそれは言いっこ無しって言う事になっている。
元々キワモノ的に扱われていたタイヤキでなく、業界ではシベリアの普及に力を入れていたわけで、今更タイヤキの出自を争うわけには行かないだろうという話になった。

 私も別に浪花家総本店にケチをつけたいわけではない。確かに「浪花家のたい焼き」は百周年かもしれないし、また当時から今までずっと続いているたい焼きの老舗として、浪花家が「現存する最古紙の鯛焼屋」であろうという表現であれば確かにそうだろうと思う。しかし、浪花家がたい焼きの発祥であるということは確認できず、むしろそれを否定する材料が見つかってしまうという事実については明言せざるをえない。

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