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深夜の東京徘徊の愉しみ

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深夜、用もなく、ただひたすら都内を歩き続ける。
これが結構病みつきになるというか、大好きだった。
しかし、多分、他人に話しても「何それ?どこが面白いの?」と言われてしまいそうではある。
とにかく延々と、歩いて、歩いて、歩き続けるのである。

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都心に通勤していた頃や、頻繁に用事があって出ていた頃は、都内の移動はもっぱら地下鉄かJRだったが、電車で移動してしまうと、頭の中で、駅ごとに街の地図が構成されてしまいがちである。しかし、歩きで移動してみると、そのバラバラになっていた地図が、一枚に繋がる感じがあるのだ。そういうのが面白かったりもする。

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あと、季節によっては、長時間屋外にいると、案外昼間は(まだ暑くなくても、暑い季節ならなおさら、)日光というものに当たり過ぎて疲れてしまったりもするが、夜ならその心配もない。
また、交通量が少なくて、騒音も(比較的)少ない気もするし、通行人も少ないし、やはり、深夜というのは、歩くこと以外の余計な疲れ(例えば目とか耳とか神経とかが疲れる感じ)が溜まりにくいから、歩くことそのものに、集中しやすいと思うのだ。
また、人の少ない深夜は、街の存在そのものにも、じっくり向き合える、という感じがする。その土地自体が発する、気配や声が、聞こえてくる感じとでも言えばいいのか。一番、「街という素材そのものの旨味」が味わえるのが、深夜徘徊なのである。
(毎度毎度なんですが、※個人の感想です。)

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歩きで、ただひたすら地上の道を移動すると、「この場所からこの場所って、思っていたよりは時間がかからないものなんだな?」と感じることも多い。
いつも地下鉄や電車で移動していると、例えば、駅のホームにたどりつくまでの時間とか、電車の到着をホームで待っている時間とか、乗り換えで連絡通路を数百メートルしかも上がったり下がったりしながら移動する時間とか、――まあ、それらの時間は、一回一回は、5分、10分程度の時間だから、本来なら気にならない時間ではあるのだけど、その「短時間」も積み重なる場合も多いし、つまり「塵も積もれば」方式で、割と「余計にかかってしまう時間」になっているのだと思う。

そういう発見もあるから、東京都心は、特に深夜の都心は、歩きでのある場所だと思う。

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なのに、……「都心深夜徘徊」、しづらくなってしまったなあ。
コロナウイルスの流行のせいでできなくなったことで、特に残念だったことのうちの一つは、間違いなくこの「深夜の都心徘徊」だなあ。
いや、むしろ深夜は、都心と言えども人もいないのだから、「ウイルス拡散防止」という観点ではまったく問題ないとは思うのだが、「人目」が気になるというか、そうでなくても「東京に今在住しているわけでもない」「怪しい風体の」中年男が「深夜に用もないのに街を徘徊している」訳でありまして、やたらめったら職務質問とかされると気分も悪いだろうし、というか、歩くことに集中できなくなりそうだし。
(ちなみにこれまで何度も、コロナウイルス流行以前の都心の深夜徘徊をしていて、お巡りさんとすれ違った記憶はないのだけど。――まあ、だからその心配は杞憂の気もするのだが。)
まあ、そもそも、今住んでいる地域から、東京方面に出ていくこと自体がしにくい状況なのであるが。

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いつでもできると思っていたし、実際なんてことなくできていたことなのだが、できなくなってしまった。
そういうことが、いくつもあるなー、と。
(ただのボヤキになってしまった。笑)