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愛とは与えるものなの??

《「自分を愛してくれ」なんて強要しないから、
花は、みんなに愛されるのだね。勉強になります。(笑)》

……なんつってこれ、
あるところに自分が冗談半分で書いてみた言葉ではあるんですが、
何というか、我ながら「真理」であるなあ、なんて後から思ってしまって。

そもそも人ってすぐ愛情を、個人的な、つまり自分基準で設定した、
行動とか物質とかで置き換えて測ろうと「互いに」してしまうし、
そりゃあ、「相手ありき」の関係性なのにすれ違うよねーっていう。

いや、それでも、
「相手の考えていることを汲み取るのに長けている人」は、
「相手が求める」愛情のその「具現化」を、
推し測ってはし続け、
場合によっては延々と再現を繰り返したりもするのでしょう……が。

その場合にしたって、それが一方的に続く状態になれば、
やがてその人も「なんだか自分ばっかりだな」って感じてしまう可能性はあるし、(人の間のそういうのは仕方のないことだとしても、割り切ったとしても、「感じてしまう」のは止められないのではないか?)
また、
相手の求める愛情のかたちを推して汲み取るのに長けて「いない」人が、
その分、愛情が薄いのかといえば、必ずしもそんなこともまたないわけで。
だってそれは単に(一言で言うと)「勘が鈍い」というだけであり、
本来、勘の鋭さとか鈍さとかには、
愛情の強弱なんてほとんど関係ないのだから。
(「愛情があるから勘も鋭くなった」というケースは、あり得るけど、でも、そうならないことの方が、圧倒的に多い気がする。愛があっても、鈍い人は割と鈍いままですよね?――って、自分がそうだからそう思うだけかな?笑)
が、しかし、二人の別々の人間が、ピッタリ同じの、
「勘の鋭さ」とか、或いは「愛情の具現化のイメージ」とか、
持ち合わせているとか揃えられるとか、そんなことなんて、あるだろうか?
――あーんまり、ないよねえ??
少なくとも、難しいことであるのは、間違いないでしょう。
と、なると、どちらかがどちらかに
いずれ「不満」を持ってしまうというのも、
また、二人の気持ちがすれ違うというのも、
起こるべくして起こる、起こりがちなことになると思うのですが、
でも、それならばそれは、
「(人と人との間の愛については)ごく自然の成り行き」
というふうにもまた言い換えられるのではないか、と。

そもそも、愛情の強弱なんて、どうやって測るのだ??って話で。
「一見冷たい」「一見温かい」という「表面に見えるもの」だけでは
もちろんそんな情みたいなものの大小強弱を、比べることはできない。
それでも「一見」のほうの、
「わかりやすい」ほうの、
「表面に満ち溢れている」ほうの、人の愛が、
判り易いし、安心だし、そっちがいいです~!
――ってあなたの気持ちは私にもよく解りますけどね、ハイ。(笑)

で、また、
愛している「フリ」が巧みな人も、
愛していると思い込んでいる人も、
何なら場合によっては愛していないと思い込んでいる人すらも、実際いる。
――人間の愛って、何だか面倒で不確かで不透明で屈折しているわけです。

うーん、「人の愛」なんて、んなもの疑い出したら、「沼」ですねー。(笑)

そうして、生身の人間を相手にし出すと、双方の愛情の中に、
屈折・勘違い・見せかけ・打算…等々
種々雑多な「不純物」が混ざり合い始めるので。

二次元とか、偶像とか、
そうでなければシンプルに人間以外の動植物とか、
いや、もう、生物のかたちをしていない、
「文学」とか「音楽」とか、
はたまた何なら何かの「研究」とか「学問」とか、
そういう存在に「純粋な愛」を注いでいこうとする人々の気持ちは、
自分にもよーく解ってしまうかなあ?と。
(これまでの自分も結果的にそうなっている気がするしね。実績ありです。笑)

人と人との間で、――つまり、相手側の、
その愛情を確かめようとすることほど、
不確かな結果に終わるものはないのだろうなあ。
例えば、「私と仕事とどっちが大事?」とか愚問だよなあ?と、
だいたいの人が解っているものでしょう?
(……のにもかかわらず、でも、
誰もがつい訊きがちですし思いがちですけど。)
(そう訊きたくなる人の心もまた解っちゃったりもしますよね?笑)

繰り返しになるが。
愛情が、「ある」「ない」「多い」「少ない」「大きい」「小さい」「重い」「軽い」等々、言い表してはみるものの、
そういうのって実は、「その人の」(つまり相手側ではなく)
主観的、個人的な感じ方でしかないし、
客観的な数値では表せない以上、
比較検討も確認もしようがないではないか。

それならば、と私は思うのである。

それくらいなら「他人から」より「自分から」の愛に、
幸せを見出したほうが、絶対いいのでは?と。
自分が「受け取る愛」より「捧げる愛」に、重きを置いてしまえば、
いっそうの「愛による多幸感」が手に入るのでは?と。

それならまだ、「当てになる」ではないか。
(とはいえ、まあそれすら「自分の思い込み」という事例があり得てしまうんだけど。笑)
で、それならば、「実感」をもつことは容易だし、
その上、何なら必要な時には、自分のさじ加減で、
「自分から」の愛情を、心ゆくまで強弱調整すればいいのだから、
健全でいられる気もする。

その「愛情の調整」を主に自分の意思でしていれば、
いや、「してかまわないんだ」と思っているだけでも、
「自分ばっかり、こんなにも!」っていう例の不満も起こりにくくなりますよね? 

嫌なら、つらいなら、弱めればいいんですもん、愛情を。
(またまた、そんな理想論を。「調整」ができると思い込めたら苦労しないよ。――というのも、でも解る。)
(また、「誰もそういうのに健全さなんて求めていない」というのも、よく解る。)
(でも、歳をとってきたり、時間や生活に無理がどうしてもできない余力のない状況になってきたりしたら、愛のみならず、全ての感情や、何なら仕事や生活のいろいろについても、「健全な運営」のための「自分からの調整」は、特に精神的な部分では、大事なことに思えてなりません。)

と、なると。

「受け取ることより捧げることこそが愛」と決めてしまえば、
「生身の人間以外」を相手にした方が、無駄がないのでは?
例えば、ペットがいる皆さんって、
何だかすごーーく幸せそうに見えて仕方ないんですよねー。
だって、犬や猫とやりとりする愛情は、どう考えても、
ただシンプルで混じり気のない「愛情そのもの」でしかないじゃなありませんか。
そういう「疑いようのない愛情のやりとり」で
人は、何て言うか、本当の癒しも得られるし、
何なら人として「正しく」「真っ直ぐに」成長できる部分もあるんじゃないだろうか??
――と割と真面目に考え始めて、
そっちに結論が傾いていきそうではあります。
(うん、傾いちゃっていい気もしてきた。笑)

いやいや、でも。

「人に対する愛」と、
「人以外の生物に与える愛」と、また「生物以外の事物に注ぐ愛」と、
ぜーんぶ、違うでしょ!
――と、言われれば、その通りでありまして。

或いは、
「どんなに愛に満ち溢れていたとしても、人に対する愛が皆無の生活には、自分は耐えられません!」
――と、おっしゃる方がいらっしゃれば、
それはそれで「そりゃまあ、そうですよね~。」となりますが。

と、そのようなお考えをお持ちならば。

「人に対する愛」について、忘れてはいけない重大なポイントを、
一つ思い出しておきたいと思うわけです

つまり、「人以外への愛」との、絶対的相違点。

相手が人の場合は、「あなたの愛はいりません」と言われたら、
それまでなのだということ。
つまり、「一方的に捧げていい愛」は、もうそこには存在しない。

相手に「受け取る意思」がなければ成立しない。
捧げようと思って、誰にでも捧げられるわけではない。
「自分の与えたい愛」は、拒否されることがあり得る。
つまり、人と人との間の愛は、「キャッチボール形式」なのである。
(この「愛」は別に、恋愛感情の話だけには留まらないと思います。家族間でも、友人間でも、仕事人としての間でも、あり得る話です。)
そう考えると、与えたい、捧げたい、渡したい、自分の愛を、
受け取ってもらえること自体が、
実は一つの幸福になるのではないでしょうか。

(これを、常日頃、ついつい忘れがちな自分であります。笑)

でも、私、これもまた思うんです。
必ずとは言えないかもしれません、が、概して、
あなたの愛を受け取ってくれる人は、きっと、
(様々なかたちがあるにせよ、なんらかの)愛を
あなたに対して持っている人なのではないかなあ??と。

例えば、想像してみてください、
自分を常日頃から理不尽にイジメ抜いている陰湿な上司とかがいたとして、
ある日気まぐれに、いっときだけ、ふっとソイツから親切にされても、
(いや、「サイコパスな人」って、割とそういうことするもんですよ?笑)
「そんな親切、いらねーよ、お断りだ、バーカ!」ってなるでしょう?
――つまり、人は概ね、嫌いな人からの愛は、欲しくないものではないですか?

それを言い換えてみれば、
「与える愛」もあれば、「受け取る愛」もある、
ということなんだと思います。
人と人との間になれば、「与えること」にはもちろん、
「受け取ること」にも、愛は要される、ということです。


愛の形なんて、人それぞれ違っていて、人の数だけあって、
だから、場合によっては自分からは、
大変、見えづらく、解りづらく、感じづらく、
ってこともいくらでもあり得るのだよなあ?と。
でも、「もともとそういうものだからねー。」と思った時に、
不意に、自ずと、見えてくる、解ってくる、感じられてくる
そんなものも、あるんじゃないかなあ??

なんてふと思ったので、書き留めてみた次第です。
(……の、割には、今回は長くなりました。笑)


追記

この文章について知人より
「相手からの愛に期待するよりも…とは、人の愛とは寂しいものですね。」という趣旨の感想をいただきました。

もしかすると、それもまた、ここで書きたいことだったという気もします。

空腹になればこそ、食べ物を、よりありがたく美味しく食べられるのと同じようなもので
「寂しくなること」って、人と人との間の愛情の遣り取りにおいては
大事にした方がいい感覚なんじゃないかと思います。
(ちょっとくらい寂しい思いをしないと、
人との愛情の遣り取りの、そのありがたさを忘れてしまう、
――まさに自分が、そういうタイプの人間だったりもするので。笑)

「寂しさを感じる」ということは、
悪いことばかりではないのだと、私は思います。

但し、「寂しさ」と「虚しさ」は、
時々よく似ているけれど、根源は別物だと思われるので、
混同してしまわないということも肝要なのだろうなあ、とも思います。
それがもたらすものが、ただひたすら「虚しさ」だけならば、
その愛からは手を引いてみてもいいのかもしれませんね。