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すべては「今」を生きるために

嫌な事、ストレスフルな事、
それらは身の回りからいつまでたっても尽きないものだ。
が、歳をとったせいか、
それらに対しての「耐性」はついてきたかも?と最近感じる。

嫌な事、ストレスフルな事は相変わらず存在するが、
それらに「振り回されない」ようになってきた、ということである。
どこかで、「自分本体」と「出来事」とを切り離して
どこまでもそれらを俯瞰で見られるようになった、
ということのような気がする。

例えるなら、
そういうものに「感染」しにくくなったということかもしれない。
――って、わざわざこの時期にウイルスに例えるのもなんだが(笑)、
いや、でも、ストレスフルなことに打ちのめされた場合、
それがその人に「後遺症」をもたらす事も多いわけだし、
場合によっては後遺症以上の事態になる事もあるわけである。
ウイルスはその存在をそれなりの機器を使って見れば目で確認できる、
対して、ストレス要因はウイルスのように必ずしも目視はできない
……というだけの違いで、
割とこの二種は「似たようなもの」なのではないか? 
事実どちらも、
「いくらでもそこらじゅうに漂っているもの」だともまた思えるし。

そのままこの「例え」を用いて話を進めさせてもらえれば、
ウイルスに似たそれらの「悪いもの」がもし、
自分の心の中に多少入ってきたとしても、
――例えるなら「感染」したとしても、
「発症」もまた、しにくくもなった気がする。
つまり、それをいつまでも気に病んで引き摺り続けることによって
振り回されたり蝕まれたり、
果ては自分自身の心身の調子が崩れていく、ということが、
めっきり少なくなったなあ、と思う。

これはひとえに
そういうものの扱いに「慣れてきた」ということだと思う。

そうか、――それなら
「経験」とは、ワクチンみたいなものだったかもしれない。

当時はしんどかったあんなこともこんなことも、
「副反応」みたいなものだったのだ。
記憶の中にある、あの痛み、苦しみ、辛さは、
必要なものだったのだ。
「ワクチン」が、ちゃんと、効力を発揮していくために。
「耐性」がついていく過程のその「証」だったのだ。

そのおかげで、今ちゃんとこうしてますます
元気に生き残っているじゃないか。
おまけに「免疫」までついてさ。

(――と、
これまでのすべてを、そう思うことにしてしまおうかな、と。笑)

どうせ過去に遡っては誰も生きられないのだ。
生きるということは「今を生きる」しかないのだ。
生きているうちは、過去を経て「今」に残ったものが、
有形無形問わずすべてだ。
ならば、むしろ「耐性」がついていないのだとしたら、
そう思えないのだとしたら、
何のために、昔むかし、あの時、自分はあれだけ苦しんだのだ?
と、なるだろう。
(または、今まさに「耐性」がつく過程の中にいる人の場合は、
今苦しんでいるのは何のためなのだ?となるだろう。)

そして、未来なんてものもまた、見えそうなものなのに、
どんなに覗き込んだところで、本当には、見えるものは何もない。
もちろん、時を先回りして、
私が「今、未来の時点で」できることも何もない。


すべては、「今」を生きるために。


こんな世の中でも、ちゃんと生き残ってきた。
そしてますます図太く、これからも生き残っていこうとしている。
そんな「今現在」だ。
それだけでまず十分だし、
それだけでも、そしてそんな自分にすらも、
もっと誇りをもってもいいとも思った。

「今この瞬間生き残っている」
それだけで勝ち抜けだ。
つまり、過ぎてしまえば、すべてが万事OKになる、ということだ。(笑)

こんな自分が、よくここまで生き残ってこれたものだともまた思っている。
あらためて、自分で自分を誇りに思う。