見出し画像

自分にうそつくことはできない。 〜路面電車の光景を見て〜


ゴトン、ゴトン…。
目の前を路面電車が、ゆっくりと重たそうに音をたてて動いている。

思わず、じーっと見入ってしまった。鉄道は確かに好き。道路の上に電車が走っている光景や、道路に埋め込まれている鉄路の姿に、なんとなく心が惹かれる。ずーっと見つめていることができる。飽きない。

物心ついたころから鉄道が好きだった。いつからどのようにして好きになったのか、それは記憶にない。物心ついたときから好きだった。すでにそのように初期設定されて生まれてきたんちゃうか、というぐらい。

「ずっと線路の絵を描いていたよ」

どうやら線路が好きだったらしい。
よく親にそう言われていた。

「なんで線路の絵なの?」
「音がいい!」
そう答えていたらしい。

どうも話を聞けば、レールに響く音がいい、ということ主張していたようだ。さしずめ今風に言えば「音鉄」だろうか。

「どんなところが好きなの?」
「わかんないけど好きなの」

子供心になんか刺さったものがあったのだろう。なんかわからんけど、この年になっても線路みて心ときめくということは、小さいときに感じた何かがしっかりと心に残ってるんだな、と目の前に伸びていく鉄路みながらそんなことを思った。

このことを「なんで?」といま自分で問うても、ふさわしい言葉が出てこない。ひとつ言えることは、「ずっと見ていられる」ということだけ。魂に響いてることって、きっと言葉にしがたい。だけど、自分が「ソレ!」と感じているその背景には「何か」があることは絶対に間違いない。

そんなに好きなことだったのに、中高大と成長し、行動範囲と人付き合いが広がるたびに鉄道好きを手放していった。理由はいろいろある。音楽やバンドとか、他のことに興味でてきてそっちにいったり。ただ、その理由のなかに「鉄道が好き」それを人に言うのが恥ずかしい、と言う思いもあった。そう、人の目を気にするというヤツだ。鉄道好きだと「ちょっと暗い」というイメージに見られそうで、そうなることで自分から人が離れていくことへの怖れがあった。

いまになって思う。

そんな怖れにとらわれたままで、いろんな体験を積み重ねていくから、自分を見失って答えを人に求めたりするようなクセができてしまうのかな、って。

そのときの自分を一瞬自己否定するような感覚にとらわれたけど、それもまた違う。そのときの自分はそう感じてたのだから、それはそれで素直に認めるしかない。そんな自分を否定しても始まらない。あえて、そんな体験をしたからこそ、いろんなことに気づけている「今」がある。

ただ、そのときに「なんでそうしたのだろうな」という自分の心はしっかりと掘り下げてみるべきなんだろうと思う。同じようなことを繰り返さないためにも。少なくとも、いまは自分を押し殺してまで、周りに迎合して生きていこうなどと思っていない。むしろ、自分の魂に感じる部分を大切にして生きていきたい、と思っているのだから。

いまこうして目の前に広がる鉄路の光景を、あらためて目にして、理屈関係なく心をときめかせている自分に気がついたとき、自分の魂が感じたものに「うそはつけないんだなぁ」と、しみじみ感じてしまった。そして、心をときめかせて、じっと鉄路を眺めている自分の姿が人の目にどう映ろうとそ関係ないよな、とも。

そんな自分の想いを刺激するかのように、夜の道をぷらぷらと歩いていたその横を、札幌の市電はゴトンゴトンと重たい走行音を響かせていった。


画像1





















































この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?