見出し画像

ショートショート 「独楽に説く」

夏の盛りの昼下がり、私は街中で妙な光景を目にした。
歩道の上で男が独楽みたいに回っていたのだ。
ピンと伸ばした両手を太ももの横側にぴったりとくっ付けて「気を付け」の姿勢をとり、くるくる、くるくる…と。
道行く人々の反応は様々だった。
ある人はあからさまに顔をしかめ、またある人は見て見ぬふりをし、またある人は憐れむような目付きで男を見た。
笑う者も幾らかいたが、そいつらは決まって一人じゃなかった。
必ずふたり以上のグループだったのだ。
人間はなんて悲しい生き物なんだろう。
一人では他人を嘲笑うことさえ出来ないなんて。
私は虚しさに打ちひしがれた。
しかし気を取り直して男に声を掛けることにした。
純粋に心配したのだ。

「もし。あなたはそこで何をしてるんですか?」
「急いでるんです。ハァ、ハァ…」

回り続けながら男は答えた。

「何を急いでるんですか?」
「えーっと、なんだっけな? …まあ、とにかく急いでるんです。ハァ、ハァ…」
「思い出せないんですか?」
「ええ。でもとにかく急いでるんです。ハァ、ハァ…」

暑さで頭がどうかしてしまったのだろうか?
天気予報は日中の最高気温が37度になると伝えていた。
スマホに目をやる。
14:08。
一日のうちでもっとも暑くなる時間だ。
アスファルトの上は間違いなく40度を超えているに違いない。
早く助けてやらないと大変なことになる。

「あのう…余計なお世話かもしれませんが、一旦止まって、何を急いでいるのか思い出してみたらどうですか?」
「そんなことをしている暇はないんです。ハァ、ハァ…」
「しかし、急いでいる時にこそ心を落ち着かせるべきですよ」
「ハァ、ハァ…」
「急いては事をし損じる、って格言を聞いたことがあるでしょう?」
「ハァ、ハァ…」
「焦りは禁物、という戒めの言葉もありますし…」
「ハァ、ハァ…」
「慌てる乞食は…」
「私は乞食じゃない。ハァ、ハァ…」
「ええ、それは分かってるんです。私が言いたいのは…」
「それにね…」
「はい」
「いまは乞食って言葉は使っちゃダメなんですよ。ハァ、ハァ…」
「た、たしかにそうですね」
「じゃあどうして使ったんですか? ハァ、ハァ…」
「うーん、まあ、その、あくまで慣用表現ですから…」
「ダメなものはダメなんです。ハァ、ハァ…」
「しかし、私はあなたを助けるために…」
「ダメなんです。ハァ、ハァ…」
「…」

私はにっちもさっちも行かない状況に郷を煮やした。
いっそ匙を投げてしまおうか…。
そう思いそうにもなった。
しかし男を見捨てる訳には行かなかった。
命の危険を感じるほど暑かったからだ。
汗でシャツが体に張り付いて、地肌が透けている。
男も、私も。

「よくない言葉を使ってすみませんでした。反省します」
「ハァ、ハァ…」
「お許し下さい」
「ハァ、ハァ…」
「あのう…」
「ハァ、ハァ…」
「より適切な諺を思い出したので、それを言ってもいいですか?」
「ハァ、ハァ…」
「あなたの助けになると思うんです」
「ハァ、ハァ…」
「きっとあなたの助けに…」
「どーぞ。ハァ、ハァ…」
「い、いいんですか…?」
「言いたいんでしょ? ハァ、ハァ…」
「ええ。ぜひあなたにお知らせしたいんです。あ、その前にひとつ。諺や格言というのはなかなか侮れないものなんですよ。一見単純そうで、その実、生活上の真理が簡潔に表現されているものが沢山ありましてね。まあ、なかには単なる風刺のようなものもありますが、それらとてみな先人の経験に基づいた…」
「手短にお願いします。ハァ、ハァ…」
「あぁ…」
「急いでますから。ハァ、ハァ…」
「…ですよね。失礼しました」
「早く」
「はいはい。えーっと、急がば…」
「回ってますよ、とっくに。ハァ、ハァ…」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?