連続公演 「トイレのボタン」
「お手洗い終わったら、そこのオレンジのボタンを押して教えてくださいね」と言って、僕は個室のトイレを出る。
その人は、ボタンを押して知らせてくれない。
「ボタンを押してくれるとありがたいんですけどね。今度は押してくださいね」
「あ、そうかぁ。ボタン押せばいいのね」
この会話のやり取りを何千回しただろうか。
連続公演が永遠に続く舞台のようだ。もう、セリフを間違うことはほとんどない。お互いに毎回初見のようなリアクションをとらなくてはいけない。それは暗黙のルールなのだ。
転倒リスクがある利用者さんがトイレに向かうときは、必ず横について歩行の見守りをする。杖をついて歩行する方・フラつきのある方・心臓が弱く歩くことが出来ても疲れやすい方など様々いる。
便座に座る時も注意が必要で、手すりを持って立っていることが出来ても、ズボンとパンツを自分で下ろせない方がいる。そういう方にはお手伝いをさせてもらう。
用を足しトイレを後にする時も、ひとりで席に戻るのは転倒の危険がある。そのためにトイレに備え付けてある「ナースコール」を押してもらうようお願いする。ボタンを押すとフロア内に通知音が鳴る。
そのボタンを押してくれないのだ。仕方ない。
その方がトイレから出てくるまでドア付近に待っていれば済む話だが、いかせん忙しさや人員の配置によっては、その場から離れなくてはならない時がある。
頃合いを見てトイレへ駆け寄るも、間に合わないこともあるのだ。特にデイサービスなどの大人数を見守る施設では、どうしようもない現状がある。
なので「お手洗い終わったら、そこのオレンジのボタンを押して教えてくださいね」と言って、僕は個室のトイレを出る。
利用者さんがトイレのドアを開けた瞬間、舞台公演が幕を開ける。
「ボタンを押してくれるとありがたいんですけどね。今度は押してくださいね」
今度、アドリブを放り込んでやろうか。
でも、こうしたコミュニケーションの積み重ねが利用者さんとの信頼関係を築いていく。
この記事が参加している募集
介護は大変。介護職はキツイ。そんなネガティブなイメージを覆したいと思っています。介護職は人間的成長ができるクリエイティブで素晴らしい仕事です。家族介護者の方も支援していけるように、この活動を応援してください!よろしくお願いいたします。