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知識や感性をアップデートせずTwitterしか見ない経営者がヤバい理由がようやくわかった


1、クリエイターにはコミュ力が必要と言われる根本的な理由

今、「デザイン」という概念を深く掘り下げている。
その中で、ことばとデザインの切っても切り離せない強い関係性に突き当たった。ドイツ人思想家、クリッペンドルフは「人間中心デザイン」の思想のなかで、「デザインの意味論的転回」を説いた。

彼は自らのデザイン思想において、以下のようなテーゼを提示した。

テーゼ1:「デザインとは、人工物に意味を付与することである」

「意味」とは何か。そんな問いから発する「意味論」は言語哲学領域において中心的かつ広大なテーマである。ヴィトゲンシュタインは、「ことばの意味とは、その使用である」と述べた。デザインとことばは深く結びついている。

テーゼ2:「デザイナーとは、デザインのディスコースを使うコミュニティに属する者たちのことである」

ディスコースとは、言説・言葉遣いのことである。自らのアイデンティティを規定するのはことばであり、それを使用するコミュニティに属することであるということだ。

デザインのみならず、経営、作曲、絵画、ものづくりなど、あらゆる創造的な営みの深淵には「ことば=言語」が横たわっており、改めて「ことば=言語」というツールに深く関心を持った。最新の言語学・認知心理学・人類学において、言語の働きと思考(世界の見えかた)がどのように整理されているのかを知りたいと感じ、本書を手に取った。

2、本書の概要

第一部:言語は鏡

古代人の記述や言語には、現代人である我々にとっては理解し難い色彩表現が現れることがある。ホメロスは海を「ワインに見える」と描写し、原始的な文化を現代まで保つ民族が空を「黒」と表現する事例が多数報告されている。
古代人や原始的な文化を保つ民族が「青」という概念を持たないという事実は19世紀以降徐々に明らかになり、西洋の科学者、哲学者、言語研究者は「当たり前」の色彩感覚に疑問を持ち始めた。
彼らはこう考えた。古代人や原始的な文化を保つ民族が目にする空や海の色は、私たちの網膜に写る空と海は、全く異なるように見えているのだろうか。 私たちとは異なり、海が赤く、空が黒く見えていたのだろうか。 それとも、色彩語彙の発達によって我々の社会は「青」という概念を文化として、段階的かつ恣意的に生み出したに過ぎないのだろうか。

第一部では、「色」をめぐる19世紀以降のミステリーとその研究の発展が文学・文化人類学・言語学・解剖学を通じて紹介されている。

第二部:言語はレンズ

「南に二歩下がって、その後で北東へ手を伸ばしなさい」
もしダンスの先生がこんな指示を出したら笑ってしまうだろう。 私たちの常識では、先生はこう指示を出すべきである 「後ろに二歩下がって、右斜め前に手を伸ばしなさい」
しかし世界には「前後左右」という概念を持たず(自己中心座標)、「東西南北」という概念(地理座標)で空間的関係を表現する言語が多数存在している! その言語の話者は、最初のダンスの先生の指示の何がおかしいのかわからないだろう。

「言語の違いは基本的に、なにを伝えていいかではなく、なにを伝えなくてはならないかということにある」

p254

第二部では、母国語の文法/言語構造が私たちの思考様式にどのような影響を与えているのかを明らかにする。

3、ことばが世界を創り変える

3-1、「制約」としての言語観をどのように解釈するか

本書における価値ある結論は、「言語は私たちの思考様式に影響を及ぼしている」という確固たる事実である。これはなんとなく当たり前に思える結論だが、どれだけ無意識に私たちの思考が言語によって影響を受けているかを知ると、驚きしかない。
空間関係表現の差異や男性/女性名詞の区分といった言語の特徴によって、特定の認知能力や記憶力、思考力が発達することが研究によって明かになっている。 当然、私たちには思考の自由がある。しかし、これは「制約の中の自由」であると筆者は説く。言語は間違いなく、「自分自身が何者であるか」という枠組みを一定の範囲で強力に規定している。
そこで思い出したのが、「言語は牢獄」というテーゼである。 池上嘉彦は、言語を「牢獄」と表現した。(池上,1984)
人間は文化と自然が生み出した記号体系である「言語」という牢獄の中に囚われており、そこから抜け出す「詩的表現」こそが「美」であるとした。
私たちのあらゆる認知、思考、他者との関わり方は言語の性質によって制約を受けている。 文化と自然によって生み出されたその「制約」を池上やニーチェのように「牢獄」と表現するか、あるいは「箱庭」と表現するかは別として、この「制約を生み出す」ということばの特徴に依拠して世界を捉え直すと面白い。
この言語としての「制約」は二つあるのではないか。母語と母語内で属するコミュニティという二つの性質である。

3-2、母語が規定する「世界」の輪郭

母語の文法的、構造的性質の違いによって、認知や思考の方法に差異が現れることが本書では示された。そこで私が疑問に思ったことは、日本語がどのように私たちの認知や思考を規定しているのか、という点である。
日本語は豊富な一人称や色彩に関する語彙、表音文字と表意文字の併用といった特徴を持つが、このことがどのように私たち日本語話者の認知に影響を及ぼしているのか、どこかのタイミングで調べたいと考えている。
一方、外国語を学ぶことの意味に目を開かれた感覚がある。その意味とは、「新しい外国語を学ぶことは、新たな「制約」を自らにインストールし、世界を塗り替える手段なのではないか」ということである。 私たちは新たな言語を通じて、その言語が包含する「制約」に則って世界を新しい形で切り取り、認知することとなる。外国語を学ぶことは、ビジネスのため、コミュニケーションのため、エンタメ消費のため、という意味を超え、新しい世界創造につながる行為なのではないか。

3-3、母語内で属するコミュニティ

クリッペンドルフの「ディスコース」という概念について、改めて考えた。
「デザイナーとはデザインのディスコースを使うコミュニティに属する者たちのことである」(クリッペンドルフ,2009)
会社、交友関係、サークル、家族、社会階級、言語体系といった多種多様なコミュニティに属するというということは、そのコミュニティにおけるディスコースを自らにインストールすることにほかならない。新たなディスコースを学ぶこと=新しいことばををインストールすること=新しい世界の創造につながることであるとしたら、自分を生まれ変わらせたいと望んだとき、「どのような言葉づかいのコミュニティに属するのか」をもっと真剣に考えるべきなのではないだろうか。
人間にとって「環境を変えてみる」という行為の本質的な意味はここにあるのではないか。それは、コミュニティにおける言語をインストールし、世界を、認知を、考えや思考を塗り変える営みなのではないか。

自分はどのようなコミュニティのディスコースをインストールしているのだろうか、それを知ることが「己を知る」ことにつながるのかもしれない。
あるいは、どのようなコミュニティのディスコースをインストールしたい/すべきなのかを考えるべきなのではないだろうか。
・経営者のディスコース
・会社員のディスコース
・クリエイターのディスコース
・消費者のディスコース

同様に、組織を生まれ変わらせたいとき、「どのような言葉づかいの組織を作り出すのか」を規定することは重要なのではないだろうか。
・組織内での言語統一
・「ありたい組織」としてのディスコースの生成
・「安定的」ディスコースを選択するのか
・「組織成長的」ディスコースを選択するのか
・「自己成長的」ディスコースを選択するのか
・「利益追求」ディスコースを選択するのか

また、自らの言葉の選び方というものが、自分の思考や思想、行動や感情の生起に大きな影響を無意識下で与えているのだとしたら、ことばづかいにもっと気をつけてみたらどうだろうか。
・苦しい場面、他者に反感を持つ場面で、感謝の言葉をあえて選ぶ
・当たり前の状況を、ポジティブな形容詞で表現する
・ただ過ぎゆく風景や日常を、いつもと違う色彩語彙で彩色してみる

3-3、口にしたことば、口から出ることば

人生を、組織を、世界を変えたいと思ったとき、意識/無意識に湧き出る「ことば」をデザインすることの重要性を無視すべきではない。
私たちの肉体は、食べたものからしか形造られない。美しい肉体をデザインしたければ、栄養のあるものを口にする以外に方法はない。
私たちのことばは、読んだ、聞いたものからしか形造られない。自身のことばをデザインしたければ、意味のあることばに触れる以外に方法はない。

私のことばは、無意識に、
・文学で出会った美しいことばを用いて世界を切り取っているだろうか
・知的刺激に満ちた書籍で仕入れたことばで目の前の事象を理解しようとしているだろうか
・美しい芸術、景色、人工物に触れたとき、豊かな形容詞でそれらの美しさを表現できているだろうか
・Twitterで目にした社会への、制度への文句を繰り返してはいないだろうか
・文句ばかりの友人のことばを、他の友人との会話で再現してしまってはいないだろうか

自分のことばに「気がつき」、それを正しくデザインすることが、なりたい自分になるための最も優れた手段ではないだろうか。
ことばが思考を生み出し、感情と感覚を生起させ、世界の輪郭とその境界線を規定するのだから。

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