ソーシャルキャピタルとはなにか?政治・経済、あらゆる社会活動に通ずる概念です



問:ソーシャルキャピタルについて、150字以内で説明しなさい。



ダメな解答例:
ソーシャルは社会だよな・・・キャピタルってなんだったっけ?


解答例:
ソーシャルキャピタルとは、社会・地域における人々の信頼関係や結びつきを表す概念である。抽象的な概念で、定義もさまざまだが、ソーシャルキャピタルが蓄積された社会では相互の信頼や協力が得られるため、他人への警戒が少なく、治安・経済・教育・健康・幸福感などに良い影響があり、社会の効率性が高まるとされる。(149字)



《ソーシャルキャピタルの概要》


 「ソーシャルキャピタル」とは、信頼や規範、ネットワークなど、社会や地域コミュニティにおける人々の相互関係や結びつきを支える仕組みの重要性を説く考え方のことである。物的資本(フィジカル・キャピタル)や人的資本(ヒューマン・キャピタル)などに並ぶ新しい概念で、日本語では「社会的資本」「社会関係資本」と訳される。

※ ソーシャルキャピタル(social capital)を素直に直訳すると「社会資本」であるが、道路や橋のようなインフラストラクチャーとしての社会資本との混合を避けるために、日本では社会関係資本と訳されることが多い

ソーシャルキャピタルは、人々の協調行動を活性化することによって培われるもので、それが豊かに蓄積されるほど、社会や組織の効率性が高まるのが特徴であるとされる。
ソーシャルキャピタルの理論についてかなり平たく言うと、地域の人々の繋がりは取引や契約によって作られるのではなく、信頼感や互酬性(お互いに感謝して助け合う)によって支えられるべきだ、ということである。別段真新しいことを述べている訳でもなく、難しいことでもないのだが、個人化が進み、地縁的な繋がりが弱まった現代においては大きな課題である。



《ソーシャルキャピタルを巡る議論の展開》


 ソーシャルキャピタルという概念は19世紀から存在しており、ジョン・デューイが1899年の『学校と社会』でこの語を用いているのを見ることができる。学校教育がうまく機能するためには、教育指導のレベルだけでなくソーシャルキャピタルの向上も必要だということである。
また、1916年には、アメリカ合衆国ヴァージニア州西部の農村地域の視学官であったL.J.ハニファンにより、学校がうまく機能するためには、地域や学校におけるコミュニティ関与が重要であると論じる論文の中でも、この語は使われた。更に、郊外都市開発について論じ、『アメリカ大都市の死と生』(1961年)『都市の経済学』(1986年)『壊れゆくアメリカ』(2004年)などを著したジェイン・ジェイコブズも論文の中でソーシャルキャピタルという語を使用した。

 現代のソーシャルキャピタル論に大きな影響を与えたのは、アメリカ合衆国の政治学者ロバート・パットナムである。1993年、パットナムは『Making Democracy Work』(邦訳『哲学する民主主義』)の中で、イタリアの北部と南部で、州政府の統治効果に格差があるのは、ソーシャルキャピタルの蓄積の違いによるものだと指摘した。
これがきっかけとなり、同書での「ソーシャルキャピタルとは、人々の協調行動を活発にすることによって、社会の効率性を高めることのできる、「信頼」「規範」「ネットワーク」といった社会的仕組みの特徴であるとする定義が広く理解されるに至った。
パットナムによればイタリア北部の方が南部に比べて効率的な統治制度をもつのは、中世から続く市民社会の伝統があるからだとし、自生的・自主的な市民同士の活動や自発的な団体の存在が民主主義にとって重要であることを提起した。米国の地域社会の推移を描き出したパットナムの著書『Bowling alone』(邦訳『孤独なボウリング』)も米国でベストセラーとなった。

 ソーシャルキャピタルという語は使われ始めてから意外と歴史が浅い。裏を返せば、それ以前は信頼感や親切心を基に助け合いをすることが、言葉にするまでもなく当然のことだったと考えることもできる。
 産業革命以後、分業・専業化が進んでいく中で、人々の暮らしも個人化が進んでいった。例えば、子育てや介護といったものは家族や近所の人でやるのが当然であったのが、契約を基にした市場サービスとして売買されていくこととなった。保育や介護といったものは売買の対象となるもの、つまり、商品的サービスとなっていった。それが良いことか悪いことかという議論は一旦置いておくにしても、ソーシャルキャピタル的な繋がり感が弱まったのは事実であろう。



《パットナムとソーシャルキャピタル》


 ソーシャルキャピタルについて追加の説明をするにあたって、上記のパットナムの研究をもう少し掘り下げることにする。イタリアの調査も、アメリカの調査も、「社会問題に関わっていく自発的団体の多様さ」「社会全体の人間関係の豊かさ」が政治・政策のパフォーマンスに好影響を与えるという結論は同じである。
信頼感と互酬性に基づいた社会的ネットワークやコミュニティが自発的・自生的に形成されていくことが地域社会にとって必要であるとした。

 パットナムはソーシャルキャピタルの充実度を測る指標として、
・多くの友人と付き合うか
・地域のスポーツクラブのような組織に属しているか
・公の問題を討議できる団体に入っているか・
・近所の人と雑談するか
・ボランティア活動をするか、
などといった、「顔の見える付き合い」がどのくらいの頻度で行われているかを膨大なデータを取って調査した。

 そして、ソーシャルキャピタルが豊かな地域は、政治的コミットメントの拡大、子供の教育成果の向上や、近隣の治安の向上、地域経済の発展、地域住民の健康状態の向上など、経済面社会面において好ましい効果をもたらしていると指摘している。
つまり、社会的人間関係がうまくいっている地域は政治や経済の状態も良く、政策のパフォーマンスが高いということを述べているのである。

 パットナムは『Bowling alone』(邦訳『孤独なボウリング』)の中で、ソーシャルキャピタルが衰退する原因として、次のような事柄を挙げている。
・労働時間や通勤時間が長いこと
・都市がスプロール化(無秩序な広域化)していること
・テレビなどの電子的娯楽が浸透していること
・女性の社会進出が進んだこと
・福祉国家的なセーフティーネットシステムが発展したこと

これらの要因が地域の人間関係を希薄にし、ソーシャルキャピタルを衰退させるとした。
考えてみれば当然ともいえることであるが、労働時間が長すぎたり通勤に時間がかかったりすれば、家族や地域の人と過ごす時間は短くなるであろうし、夫婦が共働きになれば尚更そうであろう。同様の理由で子育てや地域活動に手が回らなくなるのも理解できる。行政の支援サービスが充実したことで地域の助け合いが減るというのもわからなくはない。電子機器を使って一人で過ごす時間が増えたのも事実であろう。
こういった社会情勢や経済状況、技術の進歩などの様々な要因を以ってソーシャルキャピタルは衰退していったのである。
 
ちなみに、『Bowling alone』というタイトルは、実に示唆に富む。
この本が出版される十数年前のアメリカでは、懇親会や地域レクリエーションとしてボウリングを行うことがお決まりになっていた。職場の仲間や近所の人、スポーツクラブのチームメイトなどと一緒にボウリングをしていた。ボウリングは“親睦の場”だったのである。
しかし、やがてそのブームは終わる。上記のような原因から人間関係は疎遠になり、みんなでボウリングに行くよりも家でテレビを見るようになる。今やボウリング場にいるのはストイックに技術を磨くお一人様だけ・・・
パットナムは、みんなでワイワイとボウリングを楽しみながら親睦を深める人の姿が消え、黙々と球を転がすお一人様だけがいるボウリング場の風景に、ソーシャルキャピタルが衰退した現実を例えたのである。



《パットナムのソーシャルキャピタル論の問題点》


 「地域社会で助け合うことが必ずしも良いこととは言えず、それを煩わしく思う人もいる」という批判はあまりに抽象的かつ根が深い問題を内包するのでここでは敢えて触れない。(人々の人間関係や性格的要因にまで手を広げると話がまとまらなくなる)

もっとわかりやすい問題点として、統計解析の不十分さがある。
 例えば、「行政の支援サービスが充実したことで地域の助け合いが減る」というのは一見妥当な意見であるように聞こえるが、「地域の助け合いが減ったから行政サービスが必要になった」と考えることもできる。
 「ソーシャルキャピタルが充実している地域では教育効果が高い」というのも、「高い教育力をもった地域だからこそソーシャルキャピタルを充実させることができる」という考え方もできるし、「ソーシャルキャピタルをが充実している地域は治安が良い」というのも「治安が良いから安心して地域の人々と交流できる」と考えることもできる。
要するに、これらは因果関係があるのかどうかが今ひとつはっきりとわからない、ということである。相関関係はあるのかも知れないが、因果関係があるとまでは言えない例が多数存在する。
また、「お金に余裕があるからハイレベルな教育を実践できるし、お金に余裕があるから地域のスポーツクラブやボランティア活動に参加して人間関係を作れる」といったような疑似相関の可能性も捨てきれない。(この場合、「お金」という第三の要因を想定することで現象の繋がりを見いだせるが、それは教育とソーシャルキャピタルの因果関係とは言えない)
大量のデータを取って分析しているのは確かなのであるが、その解析・分析において少々不十分さが残ると言わざるを得ない。



※学習におけるワンポイントアドバイス


上記のような問題点はあるにしても、人は一人では生きられないということも事実です。地域コミュニティの力が必要なのは間違いないのです。建設的な人間関係を形成しつつ、プライバシーや個人の自由にも配慮する、というバランス感覚がこれから求められていくでしょう。コミュニティ論や社会学関係の書籍も参考にしつつ、自分なりの「地域社会の在り方」「ソーシャルキャピタルの築き方」を模索してみましょう。



この記事が参加している募集

放送大学在学中の限界サラリーマンですが、サポートは書籍の購入にあて、更に質の高い発信をしていきます!