嫌いな文章から、理想のライター像を考える。

良い文章の定義はいろいろあるけれど、前提として、読んだことを後悔させないというのがあると思う。

というのも、今日は久しぶりに読み味が悪い本に出会って、途中で読むのをやめた。ここで終われば運が悪かった話だけれど、この経験は良いライターへの一歩になるかもしれない。周りの人との違いから個性を見つけるように、嫌いなものは、好きなものを見つける最高のヒントになるから。

古賀史健さんは「20歳の自分に受けさせたい文章講義」でこう話している。

「この文章は好きだな」とか「こういう言い回しはどうも嫌いだな」という自分の感情を大切にするのだ。…なぜなら、好き嫌いをはっきりさせることで、書き手としての自分が見えてくるからだ。

というわけで何が嫌だったのかを考えてみると、その理由は大きく2つあった。

まず、謙虚さがないところ。文章中で一番カチンときたのはこの文章だった。

LINEやツイッターで「独り言の応酬」(自分ごとをひたすら呟き会うこと、決して相手を思いやったり、質問したり、本気で関わろうとはしないやりとり)を繰り返しても、この、なあなあの関係を補強するにすぎません。…また、いくら「独り言の応酬」を続けても、相手と結びついて、つながったという実感はないはずです。

ここでは、古賀さんのいう断定のハイリスクさが仇となっている。

あまりに強い断定の言葉を持ってくると、強烈な反発を食らう可能性が高い。…少しでも異なる意見を断定されると[読者は]強く反発する。(20歳の自分に受けさせたい文章講義)

筆者は、LINEやツイッターを「独り言の応酬」と称し、なあなあの関係を補強していると断定している。その背景に、いまどきの若者は意見のぶつかりを避け、ネット上でうわべだけの関係を築いている、といったニュアンスが私には見える。

しかし、私たちのつながったという実感に関わるのは、黒電話かLINEかという手段ではなく会話の中身なはずだし、レンタルなんもしない人さんなど、Twitterを通して人と繋がり、新しい価値を生む人もいる。

だからSNS一般を中身がない、薄いといって切り捨てるのは、さすがに雑すぎるのではないかなと思う。

そして私がここで謙虚さと言ったのは、新しい文化、下の世代の文化は、自分の世代には計り知れないという前提があるからだ。妹と同世代の高校生たちがTikTokを使ってどのようにコミュニケーションをしているのか、大学生の私ですら全くわからない。それを、しっかりとした調査も無しに否定することは傲慢だと思う。

世代だけでなく、国や趣味ごとの文化もそうだ。私は書き手として、何かが劣って見えるのは、自分がその良い面を理解できていないだけだという謙虚さをもち、違う文化の価値観に敬意を払いたいのだろう。

次の理由は、説得力がないところ。

上の文章が含まれている章では、ナナメの関係と呼ばれる利害関係のない人たちとの関わりが、根拠のない自信を持って成長する上で必要だと筆者は主張する。

すでに断定口調で反発しかけている私は、本を読み進めた。何か説得力のある証拠やアイデアが出てくるかもしれないと思ったから。

でも、あるのは「利害関係がない人は、ポンっと背中を押してくれる」という理由のみ。あとは自分の経験に基づいた具体例と、家の構造になぞらえた例え話で、ひたすら主張を支えている。

ここでは、古賀さんの言う「あなたの主張を正確な形で知っているのはあなただけであり、全ての読者はそれを知らない素人なのである」という視点が欠けているのだと思う。

反論や検証のない完成された意見が、それに賛成する読者を前提として語られているから、読者として置いてけぼりになってしまう。

読者は自分が考えていることをすぐには理解しないし、理解しても賛成するかわからない。その前提で、自分がそこに辿り着いた道のりを一緒に歩き、少しでも納得してもらいやすくする。そんな、書くために書くのではなく、伝えるために書くライターを、私は目指しているのだろう。


もちろん私が嫌いだからと言って、この本が質が低いとは言うつもりもないし、インタビューはとても綺麗にまとまっていてすごいなと思った。

でも、実際に読むのを途中でやめても後味が悪かったし、それをネガティブだからといって無かったことにするのは、汚いものに蓋をしているだけな気がした。

だから、今回は珍しく、その汚い感情に目を向けてみた。

せっかく嫌いという、ネガティブとはいえ大きな心の揺れを感じたなら、自分を知るために使えたら良いよなと思う。そしてそんなふうに、嫌いという感情を、何かを否定したり傷つけるためではなく、自分がより世界と気持ちよく接するために使い続けられたら良いなとも思う。

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