原稿の海に溺れない生活がやってきた
わたしは最後のバブル世代。氷河期世代にも片足を突っ込んでいるという、なんとも中途半端な時代に生きていた。
卒論はワープロ(知ってるあなたは同世代)で打ちこみ、印刷して大学の事務局に提出。まだメールは存在していなかった。
携帯電話はもちろんなく、家電(いえでん、家の固定電話)で連絡をとる日々。留守電のランプが点滅していると、なんだか嬉しい気持ちになった。
待ち合わせで何かあったときは、駅の伝言板を使う。
こんな時代だったので、連絡事項はすべてプリント。部屋は紙だらけだった。
デジタルのおかげで、紙の海に溺れる生活から抜け出せたことは本当にありがたいなと思う。
翻訳いまむかし
翻訳の世界もデジタル化で大きく変わった。
わたしが翻訳の仕事を始めたのは1990年代後半。ようやくメールや携帯電話が普及し始めた頃だ。
とはいえ、データはメールで送るのではなく、フロッピーディスクにコピーして、フロッピーを相手先に持っていって渡す。もちろんプリントアウトした紙の原稿も一緒に。
持参しない場合は、バイク便で届けてもらう。
急ぎの翻訳原稿はファックスで送る。
もちろん資料やプリントアウトした原稿で、部屋は紙だらけ。
いまと比べたら、まだまだアナログに近い。
それがいまでは、メールひとつですべてが完結してしまう。
翻訳でもライティング案件でも、WordあるいはGoogleドキュメントで原稿を作成し、赤入れされたデジタル原稿が戻ってくる。便利な世の中になったものである。
家事や育児、介護などでなかなか家を出られない人にとっては、ホントありがたい話だろう。
あまり見かけなくなった喫茶店での打ち合わせ
わたしが8年前の2016年に翻訳した漫画。
この漫画を翻訳しているとき、入稿するまでは基本的にやり取りするのはメールだった。たまに電話があったくらいかな。原本や原本のコピーは郵送で手元に届けられる。
翻訳したセリフや地の文はWordで文章のみメールで提出。
漫画だからかもしれないけれど、ゲラ(校正刷り)があがってきた段階での赤入れは、PDFファイルではなく紙だった。
3校まであったので、デスク周りは資料とゲラ、つまり紙に埋め尽くされていた。
そして喫茶店で編集者とゲラのチェック。直接会って話すと、コミュニケーションの齟齬(そご)がないのがいい。
デジタル化が進んだことによるメリットは多いけれども、「喫茶店での打ち合わせ」みたいな直接のやり取りをあまり見かけなくなったのは、ちょっと寂しい気もする。
デジタルだけで校了した翻訳本
3年前に翻訳したときは、前述の本と同じ編集者でありながら直接会っての打ち合わせはゼロ。まぁ、コロナ禍だったという事情もあるだろう。
詳細はスプレッドシートを使い、出版社の担当者、フリー編集者、わたしの3人で共有。
ゲラもPDFのみで、デジタルだけで校了した。
使用された紙は契約書くらいで、あとは皆無。さらにデジタル化が進んでいるのを実感した。
ただ、PDFだけでゲラのチェックをするのは怖かったので、印刷して紙に赤入れをする作業だけはやった。
そして赤入れした箇所をPDFにも赤入れをし、メールに添付して編集者に戻す。
面倒くさいかもしれないけれど、紙でチェックすると、パソコンではわからなかったミスに気づける。だから、どんなにデジタル化が進んでも、この過程だけは続けるだろう。
とにもかくにも、デジタルだけで出版されたのがこの本。
正直なところ「えぇ!直接の打ち合わせもなく、本ができちゃったよ…」とは思った。しかも、出版社の担当者とは一度も顔を合わせていない。
アナログ時代を長く生きてきたので、この流れにはさすがに戸惑いを隠せなかった。
この30年で紙の海は消えた
アナログにもデジタルにもいい面はいっぱいある。そのなかで、デジタルの恩恵は計り知れない。
わたしが整理収納アドバイザーになったから余計に感じるのかもしれないけれど、デジタル化のおかげで、とにかく家に持ち込まれる紙が減り、書類整理のストレスが激減した。
わたしが整理収納アドバイザーになったきっかけも、子どもの塾のプリントの海に溺れそうになったからというのもある。
ライターとして仕事を始めてからも、ほぼすべてがデジタル。
もう原稿の海に溺れる生活には戻れない。
ただその代わり、パソコンのなかがデータの海に溺れている。
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