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今日から「おばさんビギナー」

2021年10月、私は30歳になった。世に言う「三十路」である。既に誕生日を迎えて一足早く30歳になった同級生のSNSには「ついに30歳!もうおばさんだよ〜」という台詞が書いてあった。
私は自分が30歳になることに焦りを覚えたことはないし、誕生日を迎えても「あ、今年も誕生日がきたか」くらいにしか思っていなかった。何よりも自分が子供の時に描いてたおばさん像に追いついていなかったので、周りからおばさんの世界へようこそ、のテンションで迎えられていることに違和感を感じた。果たして「三十路」はおばさんだろうか?


そんな時にnoteで募集していた読書の秋2021の課題図書一覧を見ていたら「我は、おばさん」という開き直ったタイトルの本を見つけた。世間様から言うとおり、おばさんの入り口に立った30歳の私はこの本を読んでみようじゃないかと思った。


結論から書くと、私はこの本をイマ読めて本当に良かった。五部で構成されているこの本の中では映画や小説に出てくるまたは、著名人の色んなおばさんが人生のヒントをくれた。そして作者の岡田育さん自身が私にとっての「素敵なおばさん」になってくれたのだ。


まずこの本に出てくるおばさんは良くも悪くも、誰かに向けて「贈り物」をしている。物質的、精神的に関わらず、おばさんからの贈り物に共通しているのは実用的ではないトリッキーな物を贈るということだ。


それがどういうことなのかは、第一部で取り上げられている「更級日記」の中にある。
更級日記の作者である菅原孝標女は源氏物語に憧れて念願の上京を果たす。上京するにあたり母からは生活に必要な金品や一般常識(まめまめしき物)を贈られた。一方で彼女のおばさんは源氏物語全巻(ゆかしくしたまふなる物)を贈ったのだった。一見、スペース取って邪魔だなと思ってしまうこの源氏物語全巻が、後に菅原孝標女に当時の型にはめた幸福ではなく個人の為の幸福を選ばせたのだ。
このように、本の中で出てくるおばさん達の贈り物は女性達が人生の分岐点に差し掛かったところで、時限爆弾が如く効果を発揮している。


私はおばさん達の「絶妙に美味しいポジション」にグッときた。ある程度責任から離れた外野で女性達に摩訶不思議な贈り物をし、それが誰かの人生のヒントになるとしたら、こんなに美味しいポジションはないだろう。そして何よりおばさん達がそれを楽しんでやっていそうなのがまた良かった。


さて、冒頭で書いた「この本をイマ読めて良かった」と思わせてくれたのは第二部の「自由を生きる非・おかあさん」にある。
私は結婚はせず、自由な身でいることを選択した「非・おかあさん」だ。結婚をして家庭を作るという女の道から離れ、代わりに自分のやりたいことが出来るという自由を手に入れている。とは言え結婚、出産に対しては未だに葛藤しているのも事実だ。両親に孫の顔を見せてやらなくていいのか、晩年になったら寂しいのではないか、周りの親しい友達が一人二人と結婚していく中、葛藤は増すばかりだった。
そんな私を救ってくれたのが、野溝七生子さんの生き様と作者の岡田育さんの言葉だった。


野溝七生子さんは大正から昭和にかけて活躍した小説家である。著書の中では彼女と親交のあった矢川澄子さんが野溝さんの墓前の前でこう語っているのが紹介されている。

「家とか血縁とかいった絆をあえて斥け、ひとりで生きたいように生きて死んでいった大先輩がここにもいますよ、ということを、も少し世の人びとに知ってもらいたかった。」

野溝さんが生きていた時代は明治から昭和にかけての時代だ。今よりもっと産めよ増やせよの時代に、己の信念を貫いて「非・おかあさん」として生きるという選択に感銘を受けた。これは想像に過ぎないがこの時代で未婚を貫くということは、現代よりも遥かに大きいプレッシャーと葛藤があったのではないだろうか。
ちなみに野溝さんは晩年はホテル暮らしだというじゃないか。なんて自由でファンキーなおばさんなんだろう。


そしてもう一つ励みになったのは、第二部「自由を生きる非・お母さん」の最後に読者に語りかける作者の岡田育さん自身の言葉だった。

望む姿の大人になろう。新しい空気を吸い込んで、体内に流れる血を入れ替えて、産んでも産まなくても、あなたたち女の子は、何者にだってなれる。

それまでの岡田さんの言葉はユーモアな皮肉混じりの論文口調で思わずクスッとしてしまう文章だったり、客観的な目線であえて世間の差別的発言を取り上げる文章が多かったのだが、この章の最後でいきなり読者宛に自分の言葉として力強く語りかけられたのがとても印象的だった。また絶妙に小気味の良いリズムで語るので、読み進めていると段々とこちらの熱が上がってくる感じがした。


野溝さんの生き様と岡田さんの言葉で、子供をもうけない選択肢を取った私は初めて他者から自分の生き方を肯定してもらった気がした。
「これでいいんだ」と一人称で思うよりも、「それでいいんだよ」と二人称から言われた方が効果は絶大なのである。私は会ったことも話したこともないこの二人の素敵なおばさんから贈り物を貰ったのだ。


世の中には子供の時に想像していた定型的なおばさんもいれば、ちょっと風変わりなおばさんがいる。しかしその風変わりなパンチのきいたおばさんこそ平凡物語にスパイスを加えているのだ。若草物語のマーチおばさんも、歌手の美川憲一さんも見る側からしたらインパクトが大きくパッと思い浮かびやすい。「家政婦はみた」の市原悦子さんに関しては、彼女がいなければドラマ内の検挙率は大きく下がるだろう。世の中から全てのおばさんが消えたとしたら、味気がなくなる物語が多いのではないだろうか。おばさんパワー侮るべからず。


30歳というおばさんでも若い子でもない今の私は、なりたいおばさんになろうとしている「おばさんビギナー」なのだということに気づいた。安易におばさんと呼ぶなかれ。私はまだなりたいおばさんに到達出来ていないのだから。満足のいくおばさんに仕上がったらその時には是非、声を高らかに「おばさん」と呼んで欲しい。


作者の岡田さんが私にガスマスクを装着して新鮮な空気をくれたように、私もいつかは誰かに空気をあげれるようなおばさんになりたい。たぶんその頃にはガスマスクを外してても立っていられるスーパーおばさんになっているはず。

とりあえず飴ちゃんを持つところから始めようかな。

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