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古今和歌集1人ゼミ5 春の野

 ステンレス製の燻製機を買って、ベーコン以外の燻製も作り始めました。今の所「チーズ」「煮卵」は成功。「ナッツ」「ポテトチップス」は効果無し。「手羽先」「砂肝」は失敗。
 肉に手を出すと、料理の基礎が身についていないことをしみじみ実感します。失敗を重ねていつか娘に「旨い!」と言わせてやりたいものです。

春の庭で燻す煙は空を上り雲の香りを深めたるらん

1、本文

     よみ人知らず
春日野は今日はな焼きそ若草の妻もこもれり我もこもれり

春日野は今日は焼いてはいけないよ 若草のように瑞々しい私の妻も隠れているよ 私もこもっているのだよ

古今和歌集 春歌上 17

 今回の主題は「春の野」です。古今和歌集で「春の野」を主題とする歌はこの一首だけでした。
 春日野での野焼きを制して出会おうとする、若々しい2人の男女の歌です。「妻もこもれり我もこもれり」というシンプルな繰り返しには、童謡のような素朴さを感じます。
 こちらは歌そのものの味わいよりも、『伊勢物語』との関連で語られることが多い気がします。

2、関係歌

 『伊勢物語』十二段では、女を盗み出した男が追っ手に気づき、女を武蔵野に置いて逃げてしまいます。追っ手は盗人を追い詰めるため野に火を放とうとします。そこで女が詠んだのが次の歌でした。

武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり

 この両首の関係について、鈴木日出男は『伊勢物語評解』で次のように述べます。

 歌枕としての「春日野」との関係でいえば、「若草」「若菜」ぐらいへの連想が一般的である。対する「武蔵野」からいえば、「紫(草)」への連想がより自然である。(中略)おそらく『古今集』所収歌のように、もともと「春日野ー若草」とあった歌が、武蔵野への逃避行の物語で、「野」「草」という共通点から「武蔵野ー若草」として転用されたのではないか。また、もとは男の立場から詠まれた懸想の歌ともみられるが、ここでは女の歌になっている。そして「若草」の語は若い者の魅力をたたえる言葉であり、「つま」の語もそうであるように、用語からだけでは男女の区別がない。もともと農村集落での野遊びの習俗に根ざした、若い男女の恋の歌であったのだろう。しかし、ここでは愛の逃避行を証す歌として位置づけられている。

鈴木日出男『伊勢物語評解』筑摩書房 2013年

 春日野は後で述べるように『万葉集』の時代から春の野の歌の舞台となってきました。ですから古今和歌集の歌が先にあり、『伊勢物語』はそれを転用したという考え方は妥当だと思います。
 ところで鈴木も触れていますが、ここでの「つま」には性差がありません。この性差の無さに注目した言説に源俊頼の『俊頼髄脳』があります。

この歌も、伊勢物語に、男、女をぬすみて武蔵野をゆくに、この野は、盗人こもりたりとて、野をやかむとしける時、詠めりと書けり。

俊頼髄脳

 この言説は、息子の俊重が普通は夫の意味で使う「せこ」を妻の意味で用いたことについて、俊頼が弁明する部分で登場します。「せこ」は普通女性を指す言葉だけど男性を指すこともある。そして「つま」もそうだとして、『伊勢物語』の歌を引用したんですね。「古語」と向き合った古人の話として興味深いと思います。

3、系列1 古代〜中世

 「春の野」が主題となる歌は古今和歌集ではこの一首だけです。とはいえ「春の野」は『万葉集』時代から現代まで読み継がれているメジャーな主題でもあります。まずは『万葉集』と『新古今和歌集』からピックアップしてみましょう。

春の野にすみれ摘みにと来し我そ野を懐かしみ一夜寝にける
春の野にスミレを摘みに行こうと思って来た私なのに、野に心が引かれて一晩過ごしてしまったよ。

万葉集 巻八 1424 山部赤人

 何だか春の浮ついた恋を歌っているようにも聞こえる歌ですね。中西進はこの歌の「野」を「官人生活の反対」と指摘します(『万葉集 全訳注原文付』講談社文庫)。どうやら「春の野』は観光地的な位置付けになっていたようです。

 『万葉集』からあと二首。

春日野の浅茅が上に思ふどち遊ぶ今日の日忘らえやめも
春日野の草の上で気の合う仲間どうし遊んだ今日の日。きっと忘れやしない。
春の野に心展(の)べむと思ふどち来し今日の日は暮れずもあらぬか
春の野に行ってストレス解消しちゃおうと、気の合う仲間同士でやってきた今日の日は、暮れないでいてくれんかなあ。

万葉集 巻十 1880 1882

 アオハルかよ、と突っ込みたくなります。ツレと富士急に行った都内の大学生みたいですね。やはり春の野には観光地的気配があったのだろうと感じさせます。

 さて次は『新古今和歌集』から。と言っても歌人は平安中期の人ですけど。

焼かずとも草はもえなん春日野をただ春の日にまかせたらなん
野焼きをしなくても草は萌え出ることでしょう。だからこの春日野は、名前通りの春の日がさすのに任せて欲しいものですよ。

新古今和歌集 春歌上 78 壬生忠見

 「春日野」を焼かないでくれという歌意ですのでただちに古今和歌集歌が想起されますが、多くの注釈書は「参考歌」として古今和歌集歌を掲げるのにとどまっています。「妻」と「我」が登場しないので本歌というには踏み込みが足りないのでしょうか。
 こちらは屏風歌らしさを指摘されています。久保田淳は「絵の中の春日社への参詣人が野焼きをする人に対して発した質問という形で歌われている」と説明します(『新古今和歌集全注釈(一)』)。そう説明されると、恋情を組み込む古今和歌集歌の世界とはずいぶん隔たっていることが分かります。とはいえ春の野で観光地感を味わっていた『万葉集』の世界と比べると、古今和歌集歌の世界に近いとも言えるでしょう。古今和歌集歌と新古今和歌集歌は、どうにも実感から遠い気がします。

4、系列2  近世

 続いて近世の「春の野」です。芭蕉の句には見出せませんでしたが、弟子の杉風に次の句がありました。

振(ふり)あぐる鍬のひかりや春の野ら
振り上げる鍬に煌めく光。この春の野辺で。

『小柑子』より、杉風 

 麗らかな春の野を味わっているのは『万葉集』に近いと思います。そこに住み込み日常に詩情を見出しているのが近世らしいですね。
 もう一句。

春の野辺橋なき川へ出でにけり
春の野辺で、橋の無い川に出会ってしまったな 

宮紫暁

 宮紫暁は与謝蕪村の孫弟子に当たる江戸中期の俳人です。この句は「住む」ではなく「やって来る」方の野であるようです。「橋なき川」が効いてますね。春風に誘われ思わぬところまでやって来たのでしょうか。高啓の「尋胡隠君」のような春の陽気の高まりを感じました。

5、系列3 近代

 最後に近代の作品もいくつか見てみましょう。

封建の代もはるけきになほくらき今をいとひて春の野をゆく(鹿児島寿蔵)
囀りのゆたかなる春の野に住みてわがいふ声は子を叱る声(石川不二子)
億万の蚯蚓(みみず)の食める春の野の土の静けさを思ひみるかな(前登志夫)

 鹿児島寿蔵の「野」は山部赤人歌で中西進が指摘した「官人生活の反対」の「野」と同質ではないでしょうか。自分の実生活の場である「今」とは反対の場としての「野」です。
 石川不二子の「野」は杉風と同じ、我が住む場である「野」でした。その爛漫たる野の様子と対比される「叱る声」には内省が感じられて味わい深い。
 前登志夫の「野」は一転、静けさを思います。ただしその「野」は億万という数の蚯蚓の命の躍動が作り上げたものでした。圧倒的な生命を抱いて佇む野。なんという存在感のある静けさでしょうか。

 以上、春の喜びと生命感に満ちた「野」をめぐる文学史でした。

6、授業案 10字程度で主題を言語化してみよう。

 和歌や俳句は「訳がわからん!」となりがちですが、主題を捉えるくせを身につけると文脈迷子になりにくくなります。短い言葉で主題を言語化してやりましょう。書店のポップに書かれたキャッチコピーをイメージしてみると、目指すものを共有できると思います。

春日野は今日はな焼きそ若草の妻もこもれり我もこもれり
→「春日野で育む秘密の恋!

 こんな感じですね。
 クラス全員でやってみたら、コツがつかめるかもしれません。

 今回は以上です。最後までお読みくださり、ありがとうございました。


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