見出し画像

【贈与の世界を生きる】

人生とは、「人」と「生」きる道である。

アドラーは人の悩みはすべて「人間関係」であると断言し、最新科学は「人生の幸福は人間関係で決まる」と明らかにした。
私もそれに同感です。

で、あるならば、
「自分の持てるリソースは可能な限り、豊かな人間関係構築のために使う」
のが、幸せに生きるためには良いのではないでしょうか。

こんなふうに硬く頭で考えたわけではないのですが、最近自分の中に発見した理想のあり方、生き方について、少し書きたいと思います。

いつも自分についての発見は、自分の感覚の「違和感」や「謎」から始まります。
今回も例外ではありません。

この半年ほど、自分の中に不可解な謎がありました。
SNSで見かける、友人の活躍。
それを見ると、なんだかとてもモヤモヤするんです。
現状の自分とありたい状態のギャップに、一種の劣等感ともどかしさを感じるという感じ。

しかしおかしなことに、その人たちのように自分のやりたいことで、社会で活躍している自分の姿をイメージすると、心はそれを拒否しているのを感じるのです。
アクションが怖いとかではなく、「そっちは違う」という感覚。

この謎の答えは、
モヤモヤは「自己表現できている人への羨望、現状への不満」で、
拒否の感情は、「私が生きる中で身につけた人を喜ばし得るものは、市場にのせるのではなく、常に贈り物であってほしい」
という感覚だと最近気づきました。

それは、つながりを生み出し、維持するため。
これだけではよくわからないと思うので、続けます。


今回の謎に輪郭をもたらしてくれたのは、松村圭一郎さんという文化人類学者が書かれた「うしろめたさの人類学」という本です。
その本の言葉を紹介しながら話を進めます。
この方の本は他にもあるのですが、どれもめちゃくちゃおすすめです。

松村さんはこう言います。
商品交換を行う市場に身を置けば、誰もが人間関係に煩わされない無色透明な匿名の存在になる。
でもその市場の隣に「贈与」の領域を作り出し、愛情を可視化し、「家族」と言う親密な関係を作ることもできる。

贈り物はいわば、愛情の可視化なのです。
もちろん、売買の中に思いを乗せることもできますが、直接の交流がなければ消費者がそれをお金で買った瞬間、それは「無色透明な求める機能を搭載したモノ」になります。
そういう意味で、市場はつながりを分断し続けてきました。
価値と価値が清算された瞬間に、互いに積極的に関わり合う理由を失ってしまいます。
逆に価値と価値が清算されていない、つまり一方から贈り物をした場合は、もう一方に「うしろめたさ(本のタイトルにもなっています)」が残り、積極的に関わり合う理由が残されている状態です。

松村さんはこうも言っています。
私が少年(松村さんに贈り物をされた少年)によって喚起された共感、そして、おそらく私の好意によって彼に生じた共感は、私と彼を繋ぎ止める。
それが公平さへの第一歩となる。
なぜなら、不均衡を覆い隠しているのが、「つながり」の欠如だからだ。
「つながり」は次の行為を誘発し、「わたし」とは切り離されたように見える世界の中に、小さな共感の輪を作る。
その輪が、僕らがこの世界に創り出せるスキマとしての「社会」だ。

私は、私の周りに人肌の温度のする社会を築きたい。

2年ほど前、私がレザークラフトを始めた頃、私の作る小物入れをほしいと言ってくれた友人がおりました。
そのとき私はまだまだ始めたてだったこともあり、「お金はいいからね」と伝えて郵送。
しかし少しして、その人から小包が届いたのです。
その中にはその人が暮らす土地のお茶と、マグカップが入っていました。

それを受け取ったときの、あのあたたかな気持ちはなんとも言えません。
そのマグカップは私の中で最も大切な食器の一つであり、その人とのつながりの証でもあります。
その人はそういう意味で、今でも私の特別な人です。

※私の作品をお金で買ってくれた人もおります。その方々を傷つけないために念のため書きますが、私の作品に価値を見出してくれたというだけでもその人は私にとってはかけがえのない人です。
そういう意味では、密につながりのある個人間の消費活動は、贈与のニュアンスも含んでいるかもしれません。
お金も必要ですし、バランスの問題なのです。

ただ、消費と贈与の間には、数や量では表現できない違いがあるのです。
そんなつながりを、もっともっと広げていきたい。

数で表現できない違いといえば、最近こんな内容の動画がSNSで回ってきます。

「1億円渡されたら受け取りますか?」
「はい」
「もし1億円受け取ったとしたら明日目覚めないとしてもですか?」
「受け取りません。」
「そうでしょう。つまりあなたの明日には1億円以上の価値があるのです。」

厳密には、「明日の価値」とは、「1億円以上の価値」というより、「数の世界では測れない価値」だと思います。
私は、そんな「数の世界では測れない価値」で人生を埋め尽くしたいのです。

松村さんは、教育を贈与の例に取り上げてこんなことも書いています。
「贈与だからこそ、そのための{労力}は、時間やお金に換算できないし、損得計算すべき対象でもない。
もし教育を市場交換される{労働}とみなせば、その{成果}がきちんと計算できない以上、最低限の労働しかかけない、というのが常に{正解}になってしまう。
それだと教育は、途端に虚しい作業になる。」

「虚しい作業」か、それとも「生徒の未来を願う熱の伴う作業か」は、心持ち一つで変わってしまいます。

私は自分の大切なものへの熱を守りたい。

だからこそ、私の磨き続ける「言葉」は、誰かに響く手紙を書くために、
これからも書き続ける「詩」は、泣いている誰かの背中をあたためるために、
美しいモノを切り取ってきた「写真」は、誰かの部屋に自然を映す美しい窓をもたらすため、そして他の誰にも引き出せない友達の美しさをこの手で切り取るために、
幅を広げていきたい「ものづくり」は、誰かの生活を彩り、私たちのつながりを可視化するためにあってほしい。

これからも新しいスキルやモノを手に入れていくだろうけれど、願わくばそれらはすべて、私自身のためでありながらも、顔の浮かぶ「誰か」のためのものであってほしい。

そんなことをして、生活はどうするんだ、と言われるかもしれません。
もちろん、お金はお金で必要ですし、バランスは考えていかなければいけません。
しかし、本当に豊かな人間関係を築けていれば、お金や生活で困ったとき誰かが助けてくれる、私はそう信じています。

「そんな甘えた生き方でどうする」
「人に迷惑をかけるな」
「ちゃんと自立しないとだめだ」
「そんな生き方で恥ずかしくないのか」

はいはい、今にも聞こえてきそうな、日本を覆い尽くす自己責任を当然とする批判の声。
これが現代日本の生きづらさの、ひとつ大きな要因だと感じています。

それに私はNOを言いたい。
自分の生き方をアンチテーゼとして提示したい。
分断が続いたこの社会に、境界線の緩やかな助け合える文化を育みたい。

私たちはもっと許しあうべきだし、それぞれの弱さを愛し合うべきだし、もっともっと微笑みあうべきだと思う。

だから私はこう生きる。
そしてだからこそ、私自身、誰かを許せるだけの、助けられるだけの力もほしいと思っている。
力の獲得と贈与、そのバランスは、走りながら探っていくしかない。

私の持てる力はただ、あなたとより良くつながるために。
私にとって人生とは、「人」と「生」きる道であるから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?