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ディスニー的ポリコレ・多様性がコンテンツを滅ぼす可能性!

本記事は、ポリコレゴリ押しの近年のディズニー作品に対しての儚い抗議文である。

ポリコレの不毛な論争に1つの明確な視点を与えられたと思う(そうじゃなかったらごめんなさい)。

「ディズニーさんのポリコレ映画・ドラマにはもうウンザリ…」。
私含めそんな人は少なくないだろう。
(最近だと『スターウォーズ新3部作』、『バズライトイヤー』100周年で爆死した『ウィッシュ』(2024)など。)

(※ここでいうポリコレ映画とは主にキャラクターにマイノリティ(LGBTQ・人種)の要素を意図的に追加しているものとします)

もちろん「ポリコレがダメ!」なわけではない。

コンテンツにポリコレを入れすぎると物語性を損なうリスクが高くなる!という主張だ。

すっごく怒られそうな主張だが、全体を見ると何を言いたいかわかって頂けると思う。部分を切り出して叩かないで欲しい。

(ちなみに私は反マイノリティというわけでは全くないです。デリケートだし難しい内容なので、なにか意見があればコメントお願いします)


登場人物の性質には変化が求められる

前提として物語では登場人物の性質・もしくは周囲の環境に変化が求められる
映画やドラマ、漫画、小説など形態に関わらず、これがストーリーのセオリーだ(何も変化がないと物語として成立しにくい)。

そしてコンテンツにおいてはポリコレ的な性質に関わらず、キャラ属性はストーリー展開にマッチするほうが好ましい。

ストーリーにマッチしやすい属性が、マイノリティや問題を抱える人物だ。

一般的に少数派や問題を抱える人物がそれを克服して何かを成し遂げる話のほうが、完全無欠なヤツを主人公に据えるより物語性の密度は上がりやすい。

つまりポリコレ抜きにしても、もともと映画やドラマの登場キャラは広義の意味ではマイノリティに属していることが多い

勘のいい人はここで気づいていただけたと思うが、ズバリ結論をいうと、良し悪しでなくポリコレ的なマイノリティ要素(LGBTQ・人種など)は、物語において変容すべき要素に入る

もちろん、LGBTの性質は個人の権利だし変容する必要はない。

ただ、物語の性質としてポリコレ的性質には「周囲の認識の変化と受容」など何らかの変化を期待してしまう

つまり、ポリコレキャラを出しながらメッセージが明確でない場合、なぜその性質を加えたのか疑問が生じるのである。

これについて考えられる反論として「男であるとか女であるとか、別に変化すべきではない性質も多くあり、LGBTQなどのポリコレ枠もそこに含まれる」というものがある。

次の項目でははポリコレ的なキャラがその範疇に入るか考える。

ポリコレキャラには説明が必要

反論としてよくあるのが「ポリコレキャラ・マイノリティは普遍的な存在である。したがって物語での周囲の変化、もしくはストーリー上で説明の必要があるという主張自体が間違っている。」というもの。

しかしこの反論はそもそも数が少ないからマイノリティと呼ばれている前提をすっ飛ばしているように思う。
数が少ないなら実際に触れ合える機会も少なく、説明が必要な可能性も上がるし、ストーリーにおいて周囲の環境含めて克服してほしいという期待値も上がる。

「普通 VS 普通でない」の議論ではなく、例えば「異性愛と同性愛について学べる機会は均等ではない。社会も平等でない」という現状や数の問題だ。

もちろん多様性があり同性愛者が身近にいる環境が大事だという主張はもちろんわかるが、残念ながら現在そうなってないからマイノリティという括りなわけで、当事者以外が無知から説明を求めたくなる可能性は当然マジョリティキャラより高くなる。物語においても変化のアクションを期待してしまう。

そもそも物語において、マイノリティの説明がマジョリティより必要じゃないとすれば、その集団はもうマイノリティではない。

さらにポリコレキャラに変化や説明が不要というのは、説明が不要なマイノリティと必要なマイノリティを暗に分けているとも言える。

マイノリティを出しても説明不要でノイズにならないという主張は、ゲイやレズビアンなど社会的認知度が高い表象的なものを前提にしているのだろう。

近年の映画やドラマにおいてはポリコレキャラはもっと細分化されている。当然だがマイノリティの枠組みは無数にあるからだ。

例えばパキスタン系アメリカ人が主人公の友人役で出てきてたら、「どんな文化なんだろう?」と気になるは仕方ないかもしれない。(パキスタンの歴史を知っていてもアメリカの歴史を知っていても不十分だし)

そういうキャラが1人か2人ならストーリーへの影響は少ないかもしれないがポリコレ的なキャラが複数登場し、かつ背景に大きく疑問が湧く設定だと、ストーリーへの没入感は少なからず削がれるだろう。(例えばディズニー・ピクサーの『バズ・ライトイヤー』(2022))

ポリコレありきのキャラ設定の弊害

前提は、ポリコレキャラであろうがなかろうが、ストーリーのマッチ度が低ければノイズになり得るということ。

「キャラクターにポリコレ・マイノリティを追加するだけではストーリーにそこまで影響は出ない。」

そう考える人もいるかもしれないが、影響が少ないわけがない。

キャラクターはストーリーそれ自体でもあるからだ。

ストーリーとキャラは、カレーとじゃがいもの関係に近いだろう(わかりにくかったらごめんなさい)。

どんなキャラもそれぞれの物語を背負っている。キャラは1つの物語=料理の材料なのだ。
じゃがいもにもじゃがいもの物語がある。その物語がカレーという大きな物語とシンクロするからこそ相乗効果が生まれるのだ。

例えばカレーにサーモンのお刺身を少しでもぶち込んだら、良し悪しは別として味は相当変わるだろう。

美味しくなる確信があればやればいいし、確信がなければサーモンの刺身の投入を止めるべきかもしれない。

結果カレーがあんまり美味しくなくて「なぜサーモンの刺身を入れた!?」と家族から文句を言われるリスクもある。

キャラの微妙な匙加減で全体の完成度は大きく変わるのだ。

ポリコレキャラの場合は先ほど説明したように、マイノリティという性質上解決感が期待されるため、その分ストーリーにマッチさせるのが難しくなる。

必然性がない・説明がない・意図が見えないということは、広義の意味では物語に登場した銃は発射されなくてはならない「チェーホフの銃」と同じ理屈になってしまい、ストーリーのノイズになるリスクすらある。

ポリコレ枠でもストーリーにしっかり溶け込んでいれば問題はない。

『スターウォーズ』新三部作など、ディズニーの場合はやりすぎてストーリーに影響出まくっているのが問題なのだ。

よくあるパターンが、聞いてもいないのに脈絡なく性的な会話を投入してくるパターン。
性的マイノリティの説明のために、日常会話に疑問符がついてしまうのだ。

マイノリティであろうがマジョリティだろうが、ストーリーに関係ないのに性的嗜好をベラベラ喋るのは違和感がある。

見た目や仕草でマイノリティを表現するなら影響は少ないだろうけど、会話で説明しないといけないのはポリコレありきでキャラ設定した証明しているようなものだろう。

そもそも違和感のある説明セリフは入れるべきではないし、入れなければならないとすればそれ自体が逆差別的でもある。

「ポリコレ的に正しい」が最優先されキャラクターが生まれたなら、それはストーリーに必然性のない要素を追加していることになりかねない

まとめ

  1. 物語上のキャラの性質には変化への期待が前提としてある

  2. ポリコレ的な少数派は物語の性質上、解決が暗に期待されてしまう

  3. 解決されない場合、ノイズになるリスクがある

以上が、近年のポリコレコンテンツに対して違和感が生まれてしまう理由である。

近年のディズニーは、ストーリーよりポリコレを優先している。
ポリコレキャラはマイノリティに属すので、現実的にストーリーへの影響が大きい
というのが私の主張だ。

ポリコレキャラを入れるなといっているわけではなく、問題点がわかれば視聴者も制作陣も丁度いい匙加減がどこか見つけやすくなるだろう。

何か意見があればコメントお願いします。

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